本澤二郎の「日本の風景」(1334)

参院選公示日と政治の極端な劣化>
 7月4日は参院選の公示日だ。我が埴生の宿で「雨ニモ負ケズ」と雑草と戦い、敗北感に浸った1日だった。投開票日(7月21日)は、予想通りの衝撃的結果に、もっと泣くしかないだろう。「戦争の出来る日本」へと公然と舵を切っているナショナリズムを、誰も口にしない。全ての政党・政治家・ジャーナリズムが、国家主義・財閥の野望を言葉にしない、出来ない日本である。危機の日本に蓋を懸けた劣化した選挙戦である。誰かヒトラー台頭のドイツの政情と比較して、克明に紹介してもらいたいものである。似ているはずだ。



<嘘とハッタリだけの安倍晋三
 上京する車中、ラジオをつけた。不偏不党の原則を放り投げてしまっているNHKが、公示日特集報道を流していた。各党党首に聞く、という番組である。何人の日本人が聞いているだろうか。5割・6割の無党派が耳をそばだてる?なんてことはありえない。
 しかし、こちらは日本政治取材で生きてきた人間である。それでいて、先日の日本記者クラブでの党首討論会も欠席、テレビ観戦もしなかった。ナベツネ采配の討論会を見物する気が起きなかったのだ。夜の民放の報道で概要は掴むことが出来た。相変わらず、安倍の国家主義が、彼の歴史認識からびんびんと伝わっていたが、それをカバーした新聞テレビは少ない。
 国家主義は過去への反省も心からの謝罪などもない。靖国参拝は彼らの本心からの行動である。敗戦後の平和主義体制を否定する。それが改憲軍拡へと走らせる。侵略も植民地支配も認めようとは、無論しない。なぜか。戦前の天皇の戦争・植民地支配は「間違っていなかった」という確固たる信念からである。
 こんな不埒なナショナリストを首相に担いだ自民党、それをとことん支援する公明党という宗教政党である。これほどの暴走内閣を過去には存在しなかった。断言したい。
 安倍の発言は、この要の疑念について言及しなかった。経済や福祉などで、全ての政党と同様に、嘘とハッタリで押し切った。
<批判質問ゼロのNHK>
 NHKの番組のおかしさは、何度も紹介、分析を試みてきた。悲しいかな評価できる質問・追及は皆無だ。安倍の言い分を全て紹介させる、そのための宣伝番組である。
 よほど忍耐力が無いと全てを聞いてはいられない。同時刻テレビでも放映していたようだ。アナウンサーと政治記者の質問に批判力などない。今のNHKでは、厳しい追及質問をすると、首になるからであろうが、すでに崩壊過程にあるアベノミクスさえも、自画自賛させていた。
<雑草レベルにもなれない野党>
 こんな異様な政権を前にしての、恥ずかしい野党の体たらくである。民主党海江田万里は力不足だ。野党第1党としての迫力ある言動が見られない。参院選までの党首であることを、自ら容認するような印象を聞き手に与えていた。
 彼は民主党時代の経済産業大臣として、かの史上空前の福島原発事件で失態を演じ続けてきた。東電の悪しき幹部全てを放任、逮捕しようとしなかった。財閥・財界との癒着を問われている。
 日本の政治家は雑草を取ったことがあるだろうか。昔、世田谷の黒金泰美(池田内閣官房長官)邸に行くと、彼は庭の雑草取りをしていた。雑草の強さを知っていた。
 弱者は雑草のように群れて悪政に体当たりする。当たり前のルールである。
 昨年だったが、亀井静香は全野党を束ねて新しい潮流を作る、それが最後の仕事だと語っていた。彼は其れを果たしていない。体調を崩したものか。
 1本の雑草は手で引き抜ける。しかし、彼らは仲間が一杯いるため、簡単ではない。除草剤を撒く者もいるが、これは邪道だ。イラン大統領選挙は、野党が1本化して勝利した。エジプトも暴走大統領を退陣させている。

 植物レベルに達しない日本政治の劣化はひどすぎる。そのためにナショナリスト政権を許してしまっている。小さな殻に閉じこもって、野犬の遠吠えに甘んじている。みみっちくて泣けてくる。大局が見えないのだ。彼らも本当に過去を学んでいないからだろう。
 歴史の教訓を学んでいないのは、野党も同じなのである。小党乱立の参院選なのだ。
<自民に塩を送る公明・共産>
 国家主義政党に塩を送っている。これこそが日本政治の劣化を裏付けている。
 隣国との友好は憲法が命じている。国際社会は、日本の平和外交と平和経済貿易を歓迎してくれている。尖閣・釣魚を口実に緊張を煽る政策は、憲法の精神に反している。本来は、これ一つで政権は退陣に追い込まれる。
 あろうことか、日ごろから平和・日中友好を公約している公明党創価学会が、国家主義に塩を送り続けている。実に、不可解・不思議な現象である。他方で、これまた正論を吐いている共産党は、候補者を大量擁立して野党の1本化に抵抗して、結果的に安倍を救済している。それでいて「自共対決」などとほざいている。笑止千万である。
<ねじれは安倍・国家主義抑制に必要>
 NHKはマスコミを代表して「ねじれ解消かどうか、が選挙の焦点」だと、さかさまのキャンペーンを貼って、肝心要の国家主義政治について沈黙している。
 安倍も公明党も「ねじれを解消して政治の安定を取り戻したい」とわめき、それをマスコミが追認報道している。「ねじれ解消の暁に改憲を容易にする96条改憲、その先に国防軍にする9条改憲だ」という安倍路線について、全てのマスコミが全く説明も追及もしない。
 戦争する日本への一里塚について、公明の山口も口を閉ざしている。権力の蜜は確かに甘い。わかるが、国家主義に塩を送ることは間違いだ。
 NHKにもいいたい。ねじれは正当なものである。参院衆院の暴走を抑制する。ここに存在理由がある。「戦争する日本」にさせないためのものである。したがって、安倍と山口の犯罪的言動に誤魔化されてはならない。
<日本の誇りは平和憲法
 以上の指摘は、実に甘い評論であるが、その批判力の基礎は、日本人唯一の誇りである日本国憲法にある。日本政治経済などは、全てこの憲法に発している。中曽根バブルという馬鹿げた政策失敗をしなければ、原発安全神話に騙されていなければ、日本は国際社会で信頼と尊敬を勝ち得ていたはずである。

 かつて自民党総裁から首相になった鈴木善幸は「日本国憲法は世界に冠たる憲法」と絶賛した。彼の政治後継者の宮澤喜一は「核兵器の時代において、憲法9条はますます光輝を放ってきている」との当たり前の認識を示した。中曽根の「戦後政治の総決算」に対抗したものである。
 改憲新聞に舵を切ったナベツネに対して、平和軍縮派の宇都宮徳馬は「改憲派は大馬鹿野郎」と断罪した。ナベツネは右翼・財閥の側に立って、宇都宮に砂をかけたのだ。

 いま日本の国家主義にワシントン・ソウル・北京は、厳しい視線を向けている。「安倍は中国をけん制しながら、その実、ワシントンを標的にしている」というホワイトハウスの分析に対して、安倍とその仲間たちはどう立ち向かうつもりなのか?
2013年7月5日9時15分記(昨日は記事を載せることが出来なかったが、それでも3834件のアクセス。3日は4307件、2日3939件。感謝したい)

本澤二郎の「日本の風景」(1335)

<自民がTBS取材拒否の暴挙>
 世の中は、いろいろなことが起こるものだ。いよいよ参院選という場面で、改憲政党がTBSの取材を拒否するという暴挙に踏み出したらしい。詳細を、
番組を見ていないので不明だが、政権与党が言論の自由に制約・圧力をかけるのだという。事実ならば、正に狂っている政党である。TBSは断固跳ね返す義務を憲法上、負っている。屈したら第2のNHKである。



<寛容さ喪失の国家主義
 内外政を進める中で、国家主義ないしは国家主義的な政府と与党は、概して寛容さがないか、著しく少ない。どうしてかというと、それは国とか政府という高い目線で、物事を狭く判断するからである。市民・国民という目線での判断が、ないか少ない。
 日本国憲法国家主義を全面否定したものだ。戦勝国の、この判断を当時の吉田内閣や国民が受け入れた。ワシントンにねじ伏せられたものでは断じてない。ここを安倍や中曽根ら右翼人士は勘違いしている。
 この1線を超えた自民党総裁に対して、米連邦議会調査局は「ナショナリスト」「ストロング・ナショナリスト」と断じた。それは彼の「戦後レジームからの脱却」という基本スローガンによっても証明されている。
 政治家・官僚は日本国憲法を擁護する義務を負っている。その憲法を崩壊させようとする首相は、そもそも憲法違反なのである。「96条改憲」をわめく安倍は首相失格なのだ。
 そんな安倍自民党からの取材拒否もまた、憲法をないがしろにした愚挙であって、許されるものではない。日本国憲法を読んでいる日本の法曹人は、声を大にして自民党に猛省を促すべきだろう。
<権力主義>
 国家主義国家主義的な政府与党とその構成員の欠陥は、その対応が著しく権力主義的な点にある。国民・民衆の目線が欠けているからである。
 かつての自民党には、右翼派閥からリベラルな派閥まで複数存在した。筆者は20年の派閥政治を取材しながら、これら全てを見聞してきた唯一の政治記者となった。岸信介の後継派閥の福田派が、もっとも取材がしにくかったものだ。好きになれなかった。右翼派閥ほど警戒心が強いからだ。
 リベラルな派閥はオープンである。記者に対する差別は少ない。不思議と派閥記者も、担当する派閥の色彩に染まってゆく。批判力を喪失してしまう。
 現役記者の資質が、いま最も問われている。NHKに限らない。朝日までも、と指摘すべきだろう。日本にジャーナリズムが存在すれば、国家主義の政府は誕生しないのだが、不幸にして腐敗してしまっている。
 筆者が時折、今も感心する報道番組というと、TBSの「報道特集」である。ここには今もジャーナリズムが息づいている。そのはずで、リベラル派閥の宏池会を取材していた同僚の石原君が、現在の社長のようだ。彼はリベラルな政治記者だった。
 彼が自民党の圧力に屈するはずはない、と信じたい。
報道の自由の侵害>
 言論の自由報道の自由を、特に権力者は守る必要がある。憲法が命じているからである。権力を監視する義務が、ジャーナリズムにはある。従って単にモノを作り、売って利益を上げるビジネスと異なる。
 国民に奉仕する義務を負っているのである。真実を伝える、中立・公正、不偏不党でなければならない。国家主義や権力主義に傾倒する政治屋は、この大事な原則がわかっていない。始末が悪い。
 報道の自由が確立していない社会では、民主主義は成立しない。日本が未熟な社会である原因の一つは、言論の自由が確立していないからなのだ。外国人の中には、ここのところを大分誤解している者が少なくない。
 自民党の今回の判断は、過去になかったことである。ことほど国家主義に呑みこまれている証拠なのだ。ねじれ解消の合掌に浮かれていると、それこそ大変な人権侵害がいたるところで発生するだろう。
<問題は法廷で処理>
 言論にもいろいろある。特定政治家を標的に批判を繰り返すマスコミである。小沢退治に奔走した読売・産経なども、その一つである。言論の暴走に対して、被害者は何も出来ないか。
 そんなことはない。名誉棄損で逆襲することが出来る。自民党はそうしない。取材拒否で対抗するという。卑怯ではないか。自由と民主主義の政党ではないと、天下に公表しているようなものだ。
<がんばれTBS>
 会期末の安倍・問責決議は快挙であると筆者は書いた。土壇場の攻防戦の詳細を知らないが、傲慢な自民党に責任が無いとは言わせない。原発再稼働と原発輸出の安倍自民党、TPP推進の自民党、アホのミクスの崩壊とガソリン物価高騰は、民意に沿ったものではない。消費税強行の自民党だ。電力自由化法案は、安倍決断で成立させることが出来たのだ。
 まともな野党指導者がいれば、この政権はたちどころに退陣に追い込めるのだが。がんばれTBS!
2013年7月5日14時50分記

本澤二郎の「日本の風景」(1336)

<永田町の勇気ある政治家・森ゆう子参院議員>
 小沢問題への関心が薄かったせいなのか、森ゆう子参院議員のことを知らなかった筆者である。ネット掲示板文殊菩薩」に、勇気ある夕刊新聞「日刊ゲンダイ」に、彼女を取り上げた記事が出ていた。「検察審査会を徹底追及している森ゆう子議員に“脅し”、そこまでやるか!法務検察」というすごい見出しがついている。当人は「私に何かあったら、検察にやられたと思ってください」がサブ見出しだ。



<司法の腐敗を暴く最初の政治家>
 自民党元幹事長の加藤紘一が予測していた「司法の腐敗」は、やはり本当だった。その腐敗のあぶり出しに命がけなのが、森ゆう子議員ということになる。同じ森でも、元首相の森喜朗とは天地の差がある。後者は「日本は天皇中心の神の国」と公言して、彼が天皇国家主義の信奉者であることを自らさらけ出した。安倍の後見人である。
 彼が心酔した政治家は、東條内閣商工大臣のA級戦犯容疑者・安倍の祖父の岸信介だった。いま自民党の主流は岸の国家主義勢力だ。隣国との緊張関係や歴史認識が、そのことを明瞭に裏付けている。
 森ゆう子さんは違う。日本国憲法に身を包んだ真っ当な政治家である。今回の参院選でも新潟から出馬したという。再選を祈りたい。彼女は立派な勇気ある政治家であるからだ。彼女のような議員が10人もいれば、国家主義の政府など、たちどころに退陣させることが出来るだろう。

 彼女は既に、2011年2月3日付の日刊ゲンダイの取材に対して、検察審査会の腐敗を証言していた。当時の彼女は「不適格検察官」を罷免することが出来る国会の「検察官適格審査会」の有力メンバーだった。
 彼女について無知な筆者だが、その活動と実績は報道記事から見事である。永田町の勇気ある政治家というと、殺害後に知った石井紘基がいる。右翼や財閥に屈しなかった宇都宮徳馬がいる。彼女は、闇の腐敗組織の司法にメスを入れた最初の政治家として知られるだろう。また「CIAに殺されても屈しない」と叫んだ亀井静香も勇気ある政治家である。
 小沢一郎も、CIA・検察・新聞テレビの包囲に屈しなかった。その点で、勇気のある政治家になれた。
<闇の検察審査会に鋭いメス>
 検察官は起訴不起訴を独占的に決断できる権力を有している。それに従わねばならない制度のもとで、国民の目線で「起訴せよ」という議決の出来る検察審査会は、正に民意にかなったものである。

 だが、本当にそうなのか。違うのである。民衆の懸念を森ゆう子は、徹底的に調べ上げてゆく。泡を食った検察と裁判所が、彼女潰しに打って出てきたのだ。相手は巨大な権力を有する組織体だ。普通の者であれば、途中で腰砕けになってしまうだろう。彼女は違った。清廉・高潔な才媛だったからである。
 それゆえに、生きて参院選に出馬している。
<不可解な審査会メンバー11人の選考方法>
 民主主義の衣をまとった検察審査会のメンバーは11人。素人が11人そろって、不起訴とした検事判断を覆すことが出来る理屈になっているのだが、果たしてそうだろうか。出来ない。ここに大きな制度上の落とし穴がある。
 逆に、検察が不起訴とした事案を「起訴せよ」とする議決には、相当の判断能力か、それとも格別の政治意思を前提とする。小沢事件では検察の不起訴を、審査会が1度ならず2度も「起訴相当」という予想外の議決を行った。

 審査会内部で何があったのか。そもそも11人はどう選ばれたのか。ここにまず大きな疑念が生じる。沢山いる候補者の中から、検察や裁判所に都合のいい人物を選考する?彼女はこの疑問・カラクリに回答を出してゆく。
 「小沢有罪」の枠組み・カラクリを暴くのだ。名探偵も顔負けである。「審査員11人の選考方法が怪しい」「審査会事務局が使用するくじ引きソフトを調べて見た。結果はあきれるほどインチキ臭い代物だった」
 司法のカラクリ・偽装組織を見事に暴くのである。
<森議員に抵抗する検察と裁判所>
 正義を建て前とする検察も裁判所も、これでは形なしである。彼女は調査の過程で、検察と裁判所と審査会は、巧妙にも三位一体であることを証明する。腐敗の構造を暴いてしまうのである。

 「このくじ引きソフトは欠陥だらけ。簡単に恣意的に操作が出来る。当選させたい人以外は、欠格として除外できる。それでいて、その証拠は残さない」
 選挙事務一切を取り仕切っている民間の独占会社「ムサシ」も、ソフトをいじることで、不正選挙を貫徹することが、前回の総選挙(2012・12・26)で指摘されている。7・21の参院選で森落選ソフトが強行されないか、監視が必要であろう。
 小沢事件は、検事の証拠のねつ造などさまざまな司法の腐敗をあぶり出した。彼女の命がけの執念の調査の賜物でもある。検察と裁判所と審査会の圧力に屈しなかった成果でもある。いつの日か森ゆう子法務大臣の誕生を期待したい。
検察官適格審査会の活用を>
 検察官適格審査会という組織を最近知った。星島二郎・中野四郎の秘書を歴任した中原義正からである。確かこの組織を初めて活用した人物のはずだ。誰も利用していない。民間人が申請しても、同審査会が訴えを真剣に審査することはしないことがわかっているからだ。
 宝の持ち腐れなのだ。だが、彼女は違った。検事が震えあがって当然だろう。
 彼女はその地位を活用して「審査会の資料公開を迫った」というのだが、それでも審査会がいつ開催されたのか、審査員に支払った日当と交通費さえも明かさない司法当局だった。徹底した秘密の組織なのである。正義とは裏腹の司法界を、克明にあぶりだした功績は絶大である。
 民主的な組織が、その実、秘密の組織なのだった。検察審査会は、もともと検察と対抗する独立機関なのだが、実際は双方が連携関係にあるという事実も発覚した。これは望外な成果であろう。

 秘密と腐敗は連動する関係にある。秘密主義は官僚政治に付きものである。そこでの隠ぺいも。官尊民卑が消滅しない日本では、なおさらのことである。その秘密の扉を開けた政治家を、筆者は遅ればせながら称賛しようと思う。
2013年7月6日記

2011年: すばらしい新暗黒郷

マスコミに載らない海外記事   メタボ・カモ


2010年12月27日

Chris Hedges

未来の暗黒郷の二大構想と言えば、ジョージ・オーウェルの『1984年』とオルダス・ハクスリーの『すばらしい新世界』だ。大企業による全体主義への我々の転落を見つめていた人々の間の論争は、どちらが正しいかということだった。我々は、オーウェルが書いているように、粗野で暴力的な支配方式を用いる圧政的な監視・治安国家によって支配されているのだろうか? それとも我々は、ハクスリーが想像したように、娯楽と見世物に酔い、技術のとりこになり、浪費に魅せられて、我々自身が抑圧されるのを受け入れるのだろうか? 結局、オーウェルも、ハクスリーも正しかったのだ。ハクスリーは我々の隷属化の第一段階を見ていた。オーウェルは第二段階を見ていたのだ。

ハクスリーが予見したように、肉体的な喜び、安物の大量生産商品、無限の掛売り、政治芝居や娯楽に、魅せられ、操作されて、大企業支配の国家によって、我々はじわじわと無力化されつつある。我々が楽しまされている間に、略奪的な大企業権力を抑制していた規制は撤廃され、かつて我々を守ってくれた法律は書き換えられ、我々は貧窮化した。貸付限度額は枯渇しつつあり、労働者階級にとって良い仕事は永遠に消え去り、大量生産される商品には手が届かず、我々は『すばらしい新世界』から『1984年』へと移動させられていることに気づいている。巨額の赤字や果てしない戦争や、大企業の背任行為によって機能を損なわれた国家は、破産に向かって滑り落ちつつある。ハクスリーの触覚映画や、オージー・ポージー(乱交最高)や遠心バンブル・パピー・ゲームから、ビッグ・ブラザーが引き継ぐ時が来たのだ。我々は、嘘と幻想で巧妙に操作される社会から、あからさまに支配される社会へと移動しつつあるのだ。

オーウェルは、ニール・ポストマンが書いている通り、本が禁止された世界について警告した。ハクスリーはポストマンが書いている通り、誰も本を読もうとしない世界について警告した。オーウェルは永久戦争と恐怖の国家について警告した。ハクスリーは、頭を使う必要のない娯楽で気をそらさせられる文化について警告した。オーウェルは、あらゆる会話や思考が監視され、反対意見は過酷に懲罰される状態を警告した。ハクスリーは、国民が些事とゴシップに気を取られ、真実や情報など全く気にしないような状態を警告した。オーウェルは、人は脅されて、服従するのだと見ていた。ハクスリーは、人は誘惑されて、服従するのだと見ていた。だがハクスリーは単にオーウェルへの序曲に過ぎないということに我々は気づきつつある。ハクスリーは、我々が自らの隷属化に加担する過程を理解していた。オーウェルは隷属状態を理解していた。大企業によるクーデターが完遂されてしまった今、我々は裸で無防備のままだ。カール・マルクスが理解していたように、束縛もなく、規制もされない資本主義は、人類や自然界を枯渇、あるいは崩壊するまで搾取する、残虐で革命的な勢力であることを、我々は今理解し始めている。

“党は、ただそれ自体の為に、権力を求めるのだ”オーウェルは『1984年』の中で書いている。“我々は他の良いものには興味がない。我々は権力にのみ関心がある。富や贅沢や長寿や幸福ではない。権力のみ、純粋な権力だ。純粋な権力を、皆まもなく理解するだろう。我々は自分が何をしているのか分かっているという点で、我々は過去のあらゆる小数独裁政治家集団とは異なっている。他の連中は全て、我々に似ていた連中でさえも、臆病者で偽善者だった。ドイツのナチスとロシアの共産主義者は、手法上、我々に非常に近いところまで来たが、連中には自分自身の動機を認める勇気が欠如していた。彼等は自分たちは嫌々ながら、しかも限定された期間だけ、権力を握ったのであり、しかも、すぐ間近に、人類が自由で平等になる天国があるというふりをし、恐らくは信じてすらいた。我々は違う。手放すつもりで、権力を握ったものなどいなかったことを我々は知っている。権力は手段ではない。それが目的なのだ。革命を守るために、独裁制を確立する者などいない。革命をするのは、独裁制を確立する為だ。迫害の目的は迫害だ。拷問の目的は拷問だ。権力の目的は権力だ。”

政治哲学者のシェルドン・ウォーリンは、その著書『Democracy Incorporated』の中で、アメリカの政治制度を表現するのに“逆さまの全体主義”という用語を使っている。これはハクスリーになら通じただろう用語だ。逆さまの全体主義においては、大企業による支配という高度な技術、かつての全体主義国家が利用したものを遥かに凌駕する脅しと大衆操作は、消費者社会のきらめきや雑音や潤沢さによって、効果的に隠蔽されている。政治参加や市民的自由は次第に屈従させられる。広告代理店や、娯楽産業や、消費社会の安っぽい物欲中心主義の煙幕の背後に隠れた法人国家は、我々を徹底的に貪り食う。連中は国民にも国家にも忠誠を誓うわけではない。我々の死骸が連中の御馳走だ。

法人国家は、扇動政治家やカリスマ的な指導者という形で現われるわけではない。企業の匿名性と正体の不明さが特徴だ。バラク・オバマの様に魅力的な代弁者を雇う大企業が、科学、技術、教育やマスコミの利用を支配する。彼等が、映画やテレビが伝えるものごとを支配している。そして『すばらしい新世界』でのように、彼らは専制を強化するために、こうした通信手段を利用する。アメリカのマスコミ制度は、ウォーリンが書いているように、“資格や、あいまいさや、対話を持ち出すあらゆるもの、彼等が作り出すものや、その全体的印象の総体的な力を弱体化させたり、複雑化させたりしかねないあらゆるものを遮断し、抹殺する。”

その結果が、味気ないモノクロの情報体制だ。ジャーナリストや専門家になりすました有名太鼓持ち連中が、我々の問題を特定してくれ、様々な要因を根気よく説明してくれる。押しつけられた要因以外のことを論じる人々は、悉く見当違いの変わり者、過激派、あるいは左翼過激派の一員として片づけられてしまう。ラルフ・ネーダーからノーム・チョムスキーにいたる、先見の明ある社会評論家は追放されている。容認できる意見は、AからBまでの範囲内のもののみだ。こうした大企業の太鼓持ち連中が指導する文化は、ハクスリーが書いたように、陽気な画一世界の、果てしの無い、最終的には致命的な、楽観主義となる。私たちの暮らしを変えてくれたり、より美しくしてくれたり、より自信を持てるようにしてくれたり、より成功できるようにしたりすると約束してくれる商品を買うのに忙殺される一方、我々は権利も金も影響力も着実に剥奪される。毎夜のニュース番組であれ、“オプラ”のような対談番組であれ、こうしたマスコミ体制から我々が受けるご託宣は、より明るく、より幸せな明日への期待だ。そしてこれは、ウォーリンが指摘している通り、“大企業幹部連中に、常に陽気な顔で、利益を誇張し、損失を隠させるのと全く同じイデオロギーだ。”ウォーリンが書いているように、“個人の勇気、永遠の若さ、整形手術による美、ナノ秒で計られる行動といった、精巧な夢想を推奨する“絶え間ない技術的進歩”によって、我々は有頂天にされている。絶え間なく拡張する支配と可能性という夢で一杯の文化では、住民の圧倒的多数の人々には、想像力はあっても、ほとんど科学的な知識がない為、夢想を抱きがちになる。”

アメリカの製造基盤は解体されてしまった。山師と詐欺師連中がアメリ財務省を略奪し、退職時や大学の為にお金をとっておいた小口株主から何十億ドルも盗み取った。人身保護令状や令状無しの盗聴からの保護を含む市民的自由は奪い去られてしまった。公教育や医療を含め基本的な社会サービスは、利益の為に搾取すべく、大企業に引き渡されてしまった。反対意見の声をあげるごく少数の人々、大企業が振りまく明るい話題に参加するのを拒否する人々は、大企業支配層によって、変人として愚弄される。

ハクスリーによる『すばらしい新世界』の従順な登場人物達と同様、人々の意識や気性は法人国家によって巧みに調整されている。小説の主人公バーナード・マルクスは、いらいらして、ガールフレンドのレーニナに言う。

“君は自由になれたらと思わないか、レーニナ?”と彼は尋ねる。

“言っていることがわからない。私は自由で、最高に素晴らしい時間を自由に過ごせる。今は皆が幸福なの。”

彼は笑った。“そう、‘今は皆が幸福だ。’子供達は五歳の時からそう教えられる。だけど、何か違う形で自由になりたいとは思わないかい、レーニナ? 例えば、皆と同じ風にではなく、自分だけのやり方で。”

“言っていることがわからない”彼女は繰り返した。

うわべは崩れ落ちつつある。益々多くの人々が、自分たちが利用され強奪されていることに気がつくにつれ、ハクスリーの『すばらしい新世界』から、オーウェルの『1984年』へと、素早く移行しつつあるのだ。人々はいつか、極めて不愉快な真実に直面することを強いられるだろう。給料の良い仕事は二度と戻らない。人類史上、最大の赤字で、社会保障を含め、国民の社会的保護という最後の痕跡を根絶させるため、法人国家によって使われる「借金返済ただ働き制度」に我々は追い込まれる。国家は、資本主義デモクラシーから、新封建主義へと移行した。そして、これらの真実がはっきりと見えるようになった際には、怒りは、大企業に押しつけられた陽気な服従で置き換えられる。脱工業化後のアメリカ人の懐具合は荒涼たるもので、およそ4000万人のアメリカ人が貧困状態で生活しており、何千万人もが、“貧困線付近”と呼ばれる範疇にあり、差し押さえや、銀行による担保差し押さえや、医療費による破産から家族を救う為の貸付限度額の欠如と相まって、逆さまの全体主義は、もはや機能しないことを意味している。

我々は、次第にハクスリーの世界国家ではなく、オーウェルオセアニアで暮らすようになっている。オサマ・ビン・ラディンは、エマニュエル・ゴールドスタインが『1984年』の中で担った役割を演じている。小説中で、ゴールドスタインはテロの代表役だ。彼の邪悪な策謀や秘密の暴挙が、晩のニュースを独占する。ゴールドスタインの姿は“二分間憎悪”という毎日、国家によって行われる儀式の一部として、毎日オセアニアのテレビ画面に登場する。国家の介入がなければ、ゴールドスタインはビン・ラデン同様、あなた方を殺すのだ。悪の権化との巨大な戦いにおいては、あらゆる過剰が正当化される。

いかなる犯罪で有罪となることもなしに、7ヶ月も拘置されているブラッドリー・マニング一等兵心理的拷問は、『1984年』の最後で、反体制派のウインストン・スミスをくずおれさせる様子を反映している。マニングは、バージニア州クアンティコにある海兵隊基地の営倉で、“最大監視下の抑留者”として拘留されている。彼は24時間中23時間を孤独で過ごしている。彼は運動も許されていない。彼はベッドで、枕もシーツも使えない。軍医は彼に抗鬱剤を無理やり飲ませている。ゲシュタポの、より粗雑な拷問の手口は、マニングのような反体制派を植物人間に変えるべく、主に政府の心理学者達が開発した洗練されたオーウェル風テクニックによって置き換えられている。我々は、体のみならず、魂も破壊されるのだ。テクニックは一層効果的になっている。今や我々全員が、従順かつ無害にすべく、オーウェルの小説中にある、恐ろしい101号室に送り込まれかねない。こうした“特別行政措置”は、裁判を受けるまで三年も同様な状態の下で拘置されていたサイード・ファハド・ハシミを含め、アメリカの反体制活動家達に対して、決まった様に適用されている。このテクニックが、世界中にあるアメリカの秘密軍事施設で、何千人もの抑留者を心理的に破壊してしまった。このテクニックは、法人国家がアメリカで最も政治的に明敏な底辺層、アフリカ系アメリカ人を攻撃する、アメリカ秘密監獄における支配の定番だ。こうしたもの全てが、ハクスリーからオーウェルへの移行の前兆だ。

“お前は二度と普通の人間の感情を持てなくなる”『1984年』の中でウインストン・スミスを拷問をする連中は彼に言う。“お前の中では全てが死ぬ。お前には二度と、愛することも、友情も、生きる喜びも、笑いも、好奇心も、勇気も人格も味わえない。お前は空っぽになる。我々がお前を空っぽに絞りきってやる。それから、お前を我々で満たしてやる。”

首つり縄は締まりつつある。娯楽の時代は、弾圧の時代によって置き換えられつつある。何千万人もの国民が電子メールや電話の記録を政府に引き渡されている。人類史上、我々は最も監視され、スパイされている国民だ。アメリカ国民の多くは、その日常茶飯事を多数の監視カメラによって撮影されている。我々の嗜好や習慣はインターネット上で記録されている。我々のプロフィールは電子的に生成されている。空港で体はボディーチェックされ、スキャナーによって撮影される。公共広告、車検スティッカーや公共交通機関のポスターは不審な行動を報告するよう絶えず要求している。敵はいたるところにいる。

オーウェルが書いているように、終わりのない戦争である対テロ戦争の命令に従わない連中は、容赦なく沈黙させられる。ピッツバーグトロントで、反G-20抗議集会の勢いをそぐために用いられた過酷な治安対策は、街頭活動のレベルに全く釣り合わないものだった。だが支配者側は明確なメッセージを送ったのだ。こういうことをするな。FBIが、反戦パレスチナ人活動家達を標的として、9月末にミネアポリスやシカゴで、調査官達が活動家の自宅を急襲したのは、国家の公式ニュースピークに、あえて盾突く全ての連中に今後起きることの前触れだ。調査官、つまりアメリカ版思想警察は、電話、コンピューター、文書や他の私物を没収した。大陪審に出頭せよという呼出状は、以来26人に発行された。呼出状は、物質的な支援あるいは資源を、指定された外国のテロ組織に提供することを”禁じる連邦法に言及している。テロは、テロとは何の関係もない人々にとってさえ、我々を我々自身から守るためにビッグ・ブラザーが利用するあからさまな道具となる。

“これで、どのような世界を我々が作りつつあるのか、お前もわかり始めたか?”オーウェルは書いている。“かつての改革論者達が想像した愚劣で快楽的なユートピアとは正反対だ。恐怖と裏切りと拷問の世界だ、踏みつぶし、踏みつぶされる世界だ。洗練されるに従って、残酷さが減るのではなく、残酷さが増す世界だ。”

Chris Hedgesはネーション・インスティテュート上級研究員。彼の新著に“Death of the Liberal Class”がある。

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