本澤二郎の「日本の風景」(1140)

ラクイラ地震原子力ムラの原発事件>
 2009年4月に発生したイタリアのラクイラ地震。これが法廷闘争へと発展、その成り行きを世界が注目している、とNHKがドキュメンタリー番組で放送したという。これを見た人の中には「日本の原子力ムラも法廷に引きずり出すべきだ」と思ったようだ。ラクイラでは科学者と行政が「安全宣言」を発した6日後に大地震が発生、多くの犠牲者を出した。他方、福島では原子力ムラの「安全神話」に酔わされていた住民の多くが、巨大地震による原発崩壊によって多くの住民が被曝した。イタリアでは関係者が業務上過失致死事件として、検察が手抜きせずに追及、その行方を世界の科学者と法律家が注視しているのだが、果たして日本では?


<NHKの奮起を>
 イタリアの法治レベルの高さを物語っている。ラクイラ地震について、地元の地震学者の中に警鐘を鳴らす者もいた。これにお上が反発した。イタリアの権威ある地震科学者を動員したのだ。そこで「大地震は2000年か3000年に1度。心配ない」と安全宣言を出した。安全宣言は嘘だった。野田の原発収束宣言もまた嘘である。

 それまでラクイラの市民は「揺れたら逃げろ」という考えで行動してきたのだが、科学者の安全宣言にすっかり油断して、大惨事を招来させてしまった。地震学は科学ではなく非科学・虚像なのだった。いま法廷に立たされている過去の権威者は「40年の研究が何だったのか。ドブに捨てて今何もない」と地震研究人生に衝撃を受けている。
 そもそも地震科学など存在しないに等しい。それなのに学会が設立、権威ある地震学と地震科学者が生まれた。各国とも同様だろう。科学と言えない科学の存在に辟易するばかりだ。ラクイラ地震後の裁判が、そのことをモノの見事に証明している。
 それは日本の原子力ムラにも同じことがいえよう。非科学的な原発科学という事実を、NHKも取材して放送する義務がないのか。そうすれば原子力ムラも少しは反省するかもしれない。依然として政界・経済界・学界・マスコミを牛耳る不条理から、日本人は解放されるかもしれない。
<TBS報道特集の格好のテーマ>
 イタリアの法廷は、他方で、日本の法曹界の無能・無責任ぶりを露呈していないだろうか。安全神話を前提にして原発は54基も建設された。事件・事故は起きないという原子力ムラの役人・科学者・電力会社が、口をそろえて無理やりに住民を説得させて、その上で原発建設は成立した。
 信じた方にも問題が無いとは言えないが、安全神話を垂れ流した側、すなわち原子力ムラに重大・深刻な業務上過失が存在した。法律家はこれを理論構成して「住民はムラの責任者を刑事告訴すべきだ」と主張する義務があろう。
 ラクイラでは大地震の前に群発地震が起きていた。日本の原発も年中トラブルが起きていた。もっとも危険な原発だったのだ。被害者による刑事告訴は、原子力ムラの中枢に及んで当然だろう。

 国民の命を守るための法制不在のままの日本でいいのか。こうした国民サイドに立った取材ゼロの日本マスコミでいいのだろうか。NHKが政府の小間使いに甘んじているというのであれば、民放のTBSの報道特集はどうだろうか。政府・東電の圧力を跳ね返して、眠っている有能な法律家を動員して、彼らを刑事被告人として法廷に引きずり出すような世論喚起をするのである。提案したい。そうしないと、第2の福島は必ず起きるだろう。
<科学者と行政官が法廷に>
 それにしても、小気味のいいイタリアの裁判であろうか。罪人を差別しない。たとえ相手が「権威ある科学者」だとしても、いい加減な、間違った判断に対して、責任を負わせる。そこに例外はない。法の下の平等は、法治国家の大原則であるからだろう。
 古代ローマの歴史は、やはり飾りものではないと思う。
 科学者でない科学者は、地球上に無数にいるに違いない。彼らの過失による命の損失に対して、責任をしっかりと負わせる。そうしないと、インチキな学者が横行することになる。日本のそうした「科学者」の塊が、いうところの原子力ムラではないのか。
 国民に奉仕するメディアは、そこにもメスを入れてゆく。眠っている法律家を叩き起こして、史上最悪の事件を2度と起こさせない。その義務があるのである。その点で、地震の「科学者」と過ちを犯した行政官の責任を問うイタリアは、日本よりはるかに先進的な国と国民なのだ。
<イタリア検察は逃げない>
 イタリアは第2次世界大戦で、日本とドイツと3国同盟を結んで、連合国に対抗した敗戦国である。しかし、かの国はドイツもそうだが、ワシントンの属国ではない。民主的な法治国家としての力量は、日本の比ではない。
 小沢事件に見られるような検察ではない。検察は市民・国民の側に足場を置いているのだろう。たとえ相手が役人であろうが、権威ある者たちだろうが、法の適用に差別などしない。
 良心と法と証拠に従って捜査権・検察権を行使しているように思える。検察による証拠のねつ造など考えられない。いわんや時の政府に左右されない公正な検察であるから、国民の信頼は厚いようだ。韓国の検察もそうだが、日本の検察官は研修先にイタリアや韓国にするといいのかもしれない。
安全神話の垂れ流し責任>
 原子力ムラが延々と流布してきた安全神話に、54基の原発周辺の住民と自治体は騙されてきた。これの刑事責任は明々白々だろう。ここにきて被害者の小さな告訴を、ようやく受理した検察である。小さな枠の中で、事件を処理しようとしている。
 実際は壮大なる犯罪ではないのか。この重罪事件の放置は許されるものではない。日本の今後どころか、人類の将来がかかっている。そう思えないのか。安全神話を垂れ流してきた真犯人を追いつめる法体系を構築し、それによって処罰する必要がある。また繰り返さないために。
原子力ムラは刑事告訴の対象>
 原子力ムラが刑事告訴の対象であることはいうまでもない。東電の勝俣や清水だけではない。事件捜査の核心は、原子力ムラの徹底解剖にあるのである。3・11以降に地下にもぐって沈黙している輩を引きずり出して、真相を明らかにさせる捜査が重要であろう。
 東電による証拠の隠滅など大きな問題ではない。国民が見えない原子力ムラを明らかにする、政治や経済を動かしている原子力ムラの解剖こそが、何よりも重要であろう。

 市民あっての国である。市民を守るための法治国家なのである。そのための法制が不十分というのであれば、新たな法制を構築すればいい。検察の独立を国民の名において保障する。
 何もかもが曖昧模糊としているこの日本を再生するためにも、それは必要であろう。東北・首都圏が今も被曝の被害を被っている最悪の事件に手が出せないという社会は、どう考えてもおかしい。
2012年8月27日8時45分記