本澤二郎の「日本の風景」(1154)

<米人特派員が3・11報道を断罪>
 先日、内幸町の日本記者クラブで「日本ジャーナリスト懇話会」という会報(96号)を見つけた。そこに米紙ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラー氏の講演が掲載されていた。彼は3・11の日本マスコミの取材と報道姿勢に対して、自らの取材体験を紹介しながら、ジャーナリズムに値しないものだと真っ向から批判、権力に屈するなとの警鐘を鳴らしていた。筆者の分析に近い。彼は当たり前のリベラルなジャーナリストなのだ。


 筆者は現役の記者時代、戦前の強権政治に抗して読売新聞紙上で軍部批判を繰り返した宇都宮徳馬から「真のジャーナリズムは、リベラルでなければ責任を果たせない。権力に屈してはならないからだ」と教えられてきた。それも1度や2度のことではない。
 耳にタコが出来るほどだった。息子のようにかわいがってくれたお陰で、筆者の今日がある。右顧左眄しないリベラリストが、真のジャーナリスト足り得ると自負している。これが今の報道界・言論界に決定的に不足している。
 戦後の日本民主主義を危うくさせている元凶といっていい。真相を追及する客観報道と、公正な評論記事が欠落している。ワシントンと東京の権力に追従しているのだ。ここに日本の危機が存在していると、あえて指摘したい。
<権力と癒着・隠ぺい工作に加担>
 そこで、NY・T東京支局長の講演だが、冒頭から厳しい指摘・日本マスコミに対する怒りの警鐘を鳴らし続ける。

 「地震発生後の30分余りNHKが津波警報を出した。これは世界のモデルといえる素早い報道だった。しかし、原発報道となると、全く反対で評価できない」
 史上最悪の原発事件報道は、まるでなっていなかったと断罪した。その最大の被害者は、いうまでもない。日本国民である。
 具体的にそれを総括すると、一番大事な場面である事故後の2〜3カ月の報道は「戦前の大本営発表そのものだった」と断罪した。日本のメディアには「当局との距離感が無かった」とも糾弾。すなわち、権力と癒着していたというのだ。その通りである。
 「結果的に当局の隠ぺい工作に加担した」のである。「読者側から権力を見ていたのでなく、権力側に立って国と結びついていた」と決めつけた。米人ジャーナリストは、日本マスコミによる世紀の原発報道によほど衝撃を受けていたのだ。
 日本の命運を決する深刻・重大な場面で、国民に奉仕するマスコミは、この日本に存在しなかったことを米人ジャーナリストとして証明、訴えたかったのだろう。要は日本の新聞テレビは、政府の片棒を担いでいたのである。全ての日本国民が、彼の指摘に気付いてくれると、日本再生の芽が噴き出してくるだが。
<集団(記者クラブ)取材>
 日本には記者クラブ制度が存在している。記者クラブのない世界を全く想定できないジャーナリストばかりだ。例外は週刊誌なのだが、ここも記者クラブ在籍者の情報に多くが頼っている。
 情報の流し手である権力側からすると、この制度は実に便利である。クラブ幹事社の数人と連携することで、政府機関は一定情報を確実に全国民に流布・浸透させることが出来る。世論操作は簡単なのだ。日本民族の特性と言われる集団主義は、この記者クラブ制度と無関係ではない。戦前の「大本営発表」は、今日においても日常茶飯事に繰り広げられていることに気付くべきだろう。
 以前、日本のマスコミを研究する中国の日本研究者と知り合った。彼は日本マスコミの実情が分からない学者の説を信じ込んで、日本の「言論の自由」にかぶれていた。今もそうだろうか。

 大本営的報道は、いうなれば日本ジャーナリズムの致命的な欠陥なのだ。それは津波被害の東北でも同様だった、と米人ジャーナリストは言う。当初バラバラに現地入りした日本人記者は、しばらくすると1カ所に固まり出した。米人特派員はその様子を「取材記者は自然に団結して、霞が関記者クラブのように会見を手配した」「不思議なことは、場所によって記者の集まりが違った。4月中旬に町長が津波で亡くなった岩手県大槌町に行った時、日本人記者は一人もいなかった」と語った。日本人記者の集団主義を、見事に捉えていたのである。これでは公正・客観的な報道など期待できないのだ。

 彼は3月下旬に福島第1原発から北西40キロに位置する飯館村に入った。政府は原発から半径20キロ圏内の住民に避難指示、20〜30キロ地点の住人を屋内退避・自主避難を勧めていた。
 「IAEA国際原子力機関)は、放射線量のデータから飯館村は避難すべきだと日本政府に勧告していたが、政府は安全・大丈夫の立場だった」
 被曝基準が大甘のIAEAを引用して、改めて指摘されると、愕然とするばかりだ。「飯館村の村長は不安を口にしていた。ということは自治体も放射線情報が不足していた」「翌日、南相馬市に入ると、周囲に日本人記者が一人もいなかった。市長は私に相馬の危険度を聞いてきた」と言う有り様に衝撃を受けるのだった。これはどう考えても「民はよらしむべし知らしむべからず」という論語の世界であろう。
 政府・政治の責任は、国民の生命財産の保全に尽きるのだが、3・11原発ではその逆だったことがわかろう。「権力に屈しないメディア」が存在しない日本の悲劇を証明している。
<利権構造に無関心>
 NY・T東京支局長は、日本の原子力行政の隠ぺい体質や原発を巡る利権構造を追及する調査記事を書いた。これらも日本の新聞テレビが回避したテーマだったことに驚いたという。
 彼は島根原発の裁判にも触れた。その上で、なぜ日本の新聞テレビは、自ら問題を掘り起こそうとしないのか。お墨付きが出た場面で報じるのは、発表ジャーナリズムではないか、ともこき下ろした。
 問題の本質をえぐろうとしない。真のジャーナリズムが存在しない日本のマスコミの正体である。同じ過ちを繰り返すことになる。地震大国に54基もの原発、さらにもっともっと建設しようとしていた。なぜ?という追及さえしない。これは思考停止の言論界を物語っている。
 東京電力は9月12日になって3・11の現場写真の一部を公開した。1・5年後の対応だ。この中にも、原発津波ではなく、地震で破壊されている証拠写真がある。これを政府と国会の事故調査委員会は見ていない。

 緊急時迅速放射能影響予測システム(SPEEDI)についても、真剣に取り上げようとしなかった新聞テレビに「おかしい」と釘を刺す。政府はこれをワシントンに手渡したものの、福島には完全に伏せた。
 NY・Tは、これを詳しく報じて、日本政府の対応を厳しく批判した。これを国民は知らなかったが、マスコミは知っていた。それでも報道しなかった。米紙の報道に驚いてか、その後に毎日が、次いで朝日が報じた。「我々の前に、なぜ日本の新聞は早く報道しなかったのか」「記者クラブを通して当局との距離が近すぎて批判できなかったのか」との懸念を繰り返して述べた。これによる多くの住人の内外被曝はただ事ではないだろう。どう責任を取るつもりなのか。
<驚愕!誰も逮捕されない東電政治力>
 NY・Tの記者は「我々は東京電力の利益が総括原価方式で、法的に保証されている仕組みを批判した。電力を提供して得た利益を、原子力学者やメーカー、政治家、新聞、テレビ広告などに流れる利権構造を暴いた」といって胸を張る。敬意を表したいが、日本マスコミは報じなかった。
 米人ジャーナリストは当たり前のことをしたのである。日本の新聞テレビは東電犯罪の共犯なのである。これはジャーナリズムではない。
 しかも、しかもそれは「あれほどの大惨事を犯しながら、誰も逮捕されないような力が、東電にあるのかと疑ったからだ。この問題提起は今も変わらない」
と厳しく指弾した。東電は金で政治家・官僚・学者・マスコミを買収していた。その結果、1人の逮捕者を出すことが無かった。
 日本の警察・検察の一大汚点である。
 改めて、東電から金をもらっている政治家・マスコミ・学者という利権構造に問題の根源を突きとめた米人ジャーナリストは、あっぱれというべきか。
 「逮捕しない司法の腐敗」をそれらしく指摘した人物は、確か埼玉県知事だけである。筆者は何度もおかしいと連発してきたのだが、彼も同じ思いだった。未だに法曹界からも、これを聞くことが出来なかった。

 そもそも東電原発事件は地震による人災である。にもかかわらず、業務上重過失事件捜査に警察も検察も動かなかった。菅・野田政権の犯罪であろう。天下の不思議を日本マスコミは、1行として報じなかった。
 議会でも民主党から共産党までが東電追及を、真正面からしなかった。法律家は雑誌にも論文を書かなかった。全てが狂っている日本を裏付けていよう。法治国家は名ばかりだった。
 彼は言う。「日本の新聞は、原発事件を偶発的と紹介、構造的な問題として深い意味を追うことを、ほとんどしなかった」のである。全くである。筆者が3・11以後、怒り狂う小論を公表する理由なのだ。
9・11と3・11の類似性>
 日本の新聞テレビは、汚染米について「農水省は絶対間違わない」との立場で報道する。「消費者の立場でなく生産者の立場で書く」ことに驚きを隠さない。東電事件を「批判していけないところ」と「批判してもいいところ」があるとも指摘する。原子力安全・保安院に対する批判が弱いとも。彼は日本のマスコミは二重基準がある、と決めつけるのだ。
 米人特派員は日本マスコミの特徴は「アクセス・ジャーナリズム」だという。すなわち「当局から情報を取るために、その当局を批判しない」というのだ。
 9・11でNY・Tのミラー記者は、情報を取るためにブッシュのいう「イラク大量破壊兵器がある」という嘘をそのまま報じて批判しなかった。「ブッシュ政府が仕掛けたマッチポンプのような情報戦に引っかかってしまった」のだが、3・11以後の日本ジャーナリズムも同じだ、と断罪した。
9・11報道の教訓を踏まえてNY・Tの東京支局長は「現在の国家主義的な時だからこそ、政権との距離感を持って、読者・国民に批判すべきところは批判しなければならない。「権力の監視という本来の役割を果たせ」と叫んで、彼の講演は終わった。ナベツネよ、どう反論するつもりか。
2012年9月12日20時50分記