本澤二郎の「日本の風景」(1281)

<幻想の時代を生きる>
 宇都宮さんの「50,60鼻たれ小僧」から抜け出してみると、そこに現れてきた日本の姿は、民意が反映されない社会、具体的に今は安倍・極右政治の原野が広がっている。1945年の敗戦は何だったのか。平和と民主主義の日本を信じ込まされてきた日本人は、はたと当惑するばかりである。「幻想の時代を生きてきたことになる」と心友が、喉から絞り出すように呻いた。


心友の思いは我が思い>
 心友は大学の3年生で司法試験に合格、進んで弁護士となった。弁護士こそが市民生活を守れる最適な職業と判断したからであろう。市民の人権に格別の思い入れをもって活躍してきた。
 しかし、いま過去を振り返って満足出来ない。日本の姿・形から日本の民主主義に戸惑いを隠しきれない。司法は社会正義を貫いていると思い込もうと努めてきたが、無駄だった。議会も民意から乖離することおびただしい。行政の腐敗は天を突く勢いである。
 もっとも市民に近いはずと信じてきた言論界も、市民に奉仕しない。腐敗している。金・資本が幅をきかせる日本である。東電福島原発事件一つとっても、金が3権どころか言論界も支配していることを裏付けた。こんな日本だったのか。財閥主導の日本・ワシントンに従属する日本に民主主義は存在していない?
 人民の人民による人民のための政治は、姿を消してしまっている。
 所詮、人間の世界である。現実は薄汚いもの、と思い詰めればいいのだろうが、それでは「近代日本」が余りにもかわいそうである。悲劇である。平和憲法・民主主義が確立・定着していない日本に、ひたすら愕然とするしかないのか。「日本は真っ当な民主主義の国・法治国家」という幻想の時代を生きてきたことに気付かされ、しかし、それでいて今なすすべがない偽らざる現実に茫然と立ちすくんでいる。
 こうした心友の思いは我が思いでもある。恐らく同じ思いの知識人が沢山いるに違いないのだが。
金大中事件から40年。真相は未だ闇の中>
 2月15日午後、久しぶり心の友と日比谷でお茶を飲んだ。明るい会話は姿を消していた。以上の重苦しい話題になってしまった。つかぬ間の円安や株高という、金銭で浮かれる人種ではないのだから。別れ際に発した心友の一言が、この「幻想の時代に生きて」である。胸の奥に槍のように突き刺さってきた。

 直前に市政会館を覗いた。韓国の金大中元大統領ともっとも親しかった長沼さんがいた。彼は関西で、金大中拉致事件40周年の集会で講演をしてきたという。これも重い話題だ。
 筆者がすっかり忘れていた問題だ。金大中は大統領にもなった人物である。それでいて自分に降りかかった事件の真相を解明出来ないまま、亡くなってしまった。当時、彼を半殺しにした朴・軍人大統領の娘を、次期韓国大統領に選んだ韓国民に、多くの韓国人が違和感を抱いて当然だろう。朴時代に多くの市民が弾圧を受けていたのだから。

 拉致事件をいち早く気付いた宇都宮さんは、官邸に電話した。相手は水戸校の後輩である後藤田正晴官房副長官だ。彼は警察庁長官を歴任していた。すぐさま捜査当局を始動させたろう。結果的には金大中は殺されずに済んだ。異論もあろうが、日米共にリベラルな政権が幸いしたのであろう。
 金大中の動向を朴政権に情報提供していた人物は「大手の新聞記者、後に民放連の会長になった人物」という新事実を、長沼さんが明かしてくれた。悪の新聞記者の存在に驚いてしまった。

 米韓自由貿易協定を締結した韓国だ。この分断国家も、ワシントン工作の餌食にされていることが理解できる。自立しない、できないアジア人ということなのだろうか。その点で、見方によってはいろいろと問題を投げかける北朝鮮の方が、はるかに自立している。
 韓国もまた、真の民主主義は確立していないが、財閥批判が公然化している点で、日本よりもはるかに進歩しているだろう。
<石原環境相会見の正体>
 1月4日に金と票をいただいている教団の集会に参加、そのために重大事件発覚にもかかわらず登庁しなかった石原環境大臣の雲がくれ事件について、長沼さんは環境省記者クラブの様子を教えてくれた。
 「石原は福島の除染した枯れ草をいい加減に処理しているという朝日のスクープを意識して、会見では朝日を指名しない。オヤジ同様に姑息な対応をしている」という。
 堂々としていない。後ろめたいのだろう。蛙の子は蛙なのであろう。それかあらぬか、中国のスモッグに焦点を当てている。
<沖縄にジャーナリズム健在>
 長沼さんの事務所を覗くと、普段は見ることもない沖縄の新聞が目に止まった。大きな活字と大きな写真が紙面の隅々まで占拠していた。沖縄のオスプレイ反対運動を取り上げていた。
 あっと驚いた。すぐに感動に変わった。「沖縄にはまともな新聞が存在している。沖縄にジャーナリズムがあった」という感動である。沖縄タイムズと琉球新報である。
 都内で4000人の集会も行われたのだ。1月28日ごろらしい。その大見出しは、なんと1面トップの左右ぶちぬきである。どっちの新聞か忘れたが、見開きぶちぬきの巨大見出しで、沖縄県民の怒りを表現していた。
 本土の人間は号外を連想すれば、多少は理解できるだろう。
 日米両政府に対して怒りの声を活字にしていた。沖縄は生きている。沖縄に民主主義が存在している。心友に見せたい新聞だった。勇気をもらうことが出来た。
 福島の放射能雪や嘘と隠ぺいの東電社長の参考人質疑を、真正面から活字に出来ない全国紙、そしてテレビである。その落差は天地の開きがある。沖縄に民主主義の芽が出てきた。これこそが日本の希望である。
 幻想を打ち破る戦後初めての「日本の春」なのかもしれない。
<週刊誌はいい加減>
 安倍は週刊誌を「いい加減な記事を書いている」と国会答弁でこきおろした。それを紹介したのだが、今日は安倍を弁護することになった。
 電車内の週刊誌の広告にうんざりしてしまったのだ。日中戦争が起こるような、実にふざけた大見出しが躍っていた。常識人は一蹴して目もくれないが、無知な日本人はこれに誘惑されかねない。
 これこそが「いい加減な記事そのもの」である。こんな無責任な記事を載せることが出来る週刊誌編集長にあきれるほかない。これもまた悲しい日本の現状であろう。

 新聞テレビは、北朝鮮の3回目の地下核実験を、このさいとばかりに宣伝して、安倍内閣改憲軍拡の潮流に棹さしている。財閥・武器弾薬メーカーの広報宣伝に懸命である。
 政府・議会・言論もみな揃って狂いが生じている。
2013年2月16日21時55分記