本澤二郎の「日本の風景」(1337)

政教一致天皇国家主義
 エジプトでは選挙で選ばれた大統領が、軍によって退陣させられ、内乱状態になっている。「穏健なイスラム」のはずだった大統領が、宗教色を強めた憲法を強行する中で、多数の若者・市民が反対に立ち上がったためだ。軍がそれを後押しした格好である。要するに、政教一致体制化に人々の不満が爆発したものだ。安倍晋三改憲に執念を燃やしていることも、戦前の政教一致体制の復活にあることを忘れてはならない。




 21世紀の日本に政教一致の政体を構築する?幻想もいいところであるが、存外、本人とその周辺の思考には間違いなく存在している、と筆者は分析したい。そもそも天皇国家主義は、政教一致の政体だ。
 天皇家の源流は朝鮮半島から、と一部の専門家が指摘している。直接、内務官僚から聞いたこともある。神社・神道天皇家の宗教である。戦前の日本では、これを国教にしてしまった。いたるところに神社をつくり、全住民に信仰するよう押し付けた。
 家々に神棚も作らせる念の入れようだった。昔の古い住居の中心に今も残っているようだ。榊を飾り、手を合わせる日本人もいるだろう。人々の精神を天皇に集中させる天皇国家主義が、軍国主義に突進して侵略戦争と植民地支配を強行した、と分析できる。
靖国参拝へのこだわり>
 戦争で亡くなった日本兵を「神・英霊」として祀る神社が、九段の靖国なのである。政教一致の日本の政経構造の受益者が財閥である。GHQは、財閥を解体、神の代表である天皇を人間に引きずり下ろして、戦後はスタートした。
 だが、神道靖国信仰は、信じがたいことだが、今も続いているようだ。春秋の例大祭を知らないが、国家主義を信奉する与野党国会議員は、集団で靖国に参拝している。
 公式参拝を名乗って公然と靖国に出向いた最初の国家主義首相は、中曽根康弘である。隣国民からすると、これは侵略神社・戦争神社として今も恐れられている。其れでも安倍は、8・15参拝を強行する構えだ。
 宗教へのこだわりは、なにもイスラム社会だけではないのだ。この日本にも。
天皇中心の神の国
 安倍を出世させた小泉純一郎は首相時代、6回も参拝している。「支持者向け」と誤解する向きも多い。そんなことでは全くない。
 安倍後見人の森喜朗は「日本は天皇中心の神の国」と首相時代に本心をさらけ出して、内外から顰蹙を買ったものだ。しかし、これこそが国家主義・日本ナショナリズムの真髄とも言える価値観なのである。

 以前、安倍の盟友・中川昭一のブログを見たことがある。そこには、彼が神社参拝を日常的に行っていることを、当たり前のように記していた。
 国家主義を否定する日本国憲法政教一致を拒絶する平和憲法への彼らの憎しみは、第三者の想像を超えていることに筆者も気付かなかった。改憲派には軍需産業財閥からの献金欲しさもあるが、根底に国家主義天皇国家主義が潜んでいる。むろん、それの受益者としての財閥も、である。
<日常化する“神事”>
 自衛隊の基地を見学した際、司令官室に神棚が祀ってあるのに驚いたものだ。ご丁寧にも、近くの神社参拝まで見物させられた。
 神事なる祭礼・儀式は、一般の社会でも行われている。昔は、これらが報道される対象ではなかったが、いまでは新聞テレビが取り上げるようになっている。右傾化メディアが認知したのだ。
 神がかり的な古代宗教が「日本の文化」という体裁を取り繕いながら、復活しているのかもしれない。筆者の田舎でも、神社再建を聞く。そのための資金集め、住民への強制的寄付行為が、平然とまかり通っているようだ。
 天皇国家主義に向けた伏線は、かなり進行しているのかもしれない。
イスラム社会でもNO>
 政教一致体制は近代国家として通用しない。近代法は、国民を主権者として位置づけている。人権は永久不変の原理として尊重される。
 自民党改憲草案によると、この条項を消し去っていると小沢一郎が指摘したとして、ネット報道で大騒ぎになっている。

 イスラム教のエジプトでも、政教一致憲法を容認することはないことが、今回の騒乱で判明した。民主主義の国では、NOなのだ。外国で「自由と民主」を声高に叫ぶ日本の国家主義者が、その実、政教一致体制へと突き進もうとしている?

 中国の人権問題を特集するNHKは、これら肝心の足元の恐怖を率先報道すべきではないだろうか。日本と日本人は、いまだ戦前の明治を引きずっている。隣人との対話ができない。ドイツとの落差は大きい。
2013年7月7日8時55分記