本澤二郎の「正常化40周年の旅」(5)

尖閣問題の根底に歴史認識
 NHKは、9月30日午前の「日曜討論」番組において、尖閣竹島をテーマにした。NHK好みの御用学者をかき集めての討論会だ。片足を政府にどっぷり突っ込んだ面々の分析は、いかにも抽象的で、その分析について多くの国民にとってわかりにくいものだった。尖閣の引き金を引いた石原の名前さえ、誰ひとり口にしなかった。竹島もそうだが、根底に歴史認識が存在している。ドイツとの落差だが、そこには「天皇制」が複雑にからんでいる、とみたい。


神社神道の祭礼>
 埴生の宿に来ていた筆者は、中秋節というのに台風接近(9月30日)の報に急ぎ上京した。ちょうど祭りの日だった。神社神道の祭礼である。戦前の国教は、戦後において一つの宗教団体となって、今も存続している。従って、もはや戦前のように「神風が吹く」などというまやかしの言動を弄して、人々を惑わす力はない。原始宗教の一つでしかないのだが、しかし、それでも「天皇家の宗教」ゆえに、ごく一部の氏子という信者組織が祭礼を行っている。
 祭礼は彼らが主体となって年に一度、神輿や山車を出して、町内を練り歩く。娯楽のなかった昔は、子供には笛や太鼓だけでなく普段は縁のないお菓子を振舞ってもらえる日だ。おいしい料理の機会でもある。大人たちは、この日だけは思い切り酒を飲むことが出来た。酒と料理が、住民を集める唯一の神社祭礼の特徴だ。
<戦意高揚の主体>
 筆者は神社に対して、過去を学ぶことで、ほとんど興味を失った。というよりも、近代的宗教云々は別として、過去を反省しないことへの重大な疑問である。「天皇家の宗教」は、未来を約束されていた青年を侵略戦争に駆り出す、強力な精神的な役割を担った。誰も否定できまい。
 今から10数年前である。島根県出雲大社を見学した際、目の前の宮司に向かって「戦争中に果たした役割は?」と問いかけると、即座に「戦意の高揚」という言葉がはね返ってきた。戦争に深く加担したのだ。
 戦前の日本人は全て生まれつくと同時に、神社参拝を強要されてきた。天皇を神と崇めさせた。太平洋戦争における民間人の集団自決や、「生きて帰らず」といった、狂気の日本精神は、この神道崇拝と深く関係した。財閥・官閥・軍閥が主導する戦争を、精神面で人々の心を束縛して戦意高揚を図ったのだ。
 日清・日露・日中・日米戦争による明治・昭和の戦争を振り返ってみると、神社信仰を土台にした戦争教育だった。無数の若者の命を奪った元凶といえなくもない。他国民に想像を超える深刻な災難をもたらしたのも。にもかかわらず、神道は反省も謝罪もしていない。

 中国各地を旅すると、戦争の傷跡は人々の心の奥深く沈澱している。曖昧模糊とした戦後日本政府の不明瞭な対応に、怨念を抱いて生きていることを知ることが出来る。原因は「天皇制」「天皇家の宗教」が大きな壁となっている。右翼の砦となっているからだ。それゆえに、靖国神社公式参拝した中曽根康弘小泉純一郎に対して、中国や韓国などアジアから強い反発が出たが、これぞ正に歴史認識そのものへの怒りを示している。天皇国家主義による日清戦争で「略奪された・盗まれた尖閣」という位置付けである。あるいは「天皇の軍隊による従軍慰安婦」も、竹島への実効支配へと突き進んだ。「天皇制がドイツとの格差」の元凶だろう。
 あいまいな謝罪には、天皇制による右翼の強力な縛りがかかっているとみるべきだろう。これに御用学者も引きずられている。
<寄付の強制・反強制はNO>
 さて、目下の祭礼についてだが、日本国憲法基本的人権を「侵すことのできない永久の権利」として、個人の尊厳を最大限に保障している。従って、信教の自由も保障の対象だ。
 たとえ天皇家の宗教といえども、個人の領域を断じて侵害してはならない。信じる自由と信じない自由を100%保障している。
 寄付に強要は許されない。いわんや祭礼の寄付の強要・反強要は許されない。公金・公金に準じる資金からの寄付は絶対に、駄目である。よく問題になるのは、町会や部落の公の金からの祭礼寄付についてだが、当然NOだ。この関係で訴訟が起きているかもしれないが、祭礼寄付は、あくまでも個人の自由な意思によるものでなければならない。
 宗教団体としての神社神道は、このルールを破ってはならない。近代国家・近代法の約束ごとである。これくらいの教養を身につけていない日本人も、まだ存在しているのも事実のようだ。あいまいな歴史認識を受け入れる日本社会の基盤ともいえよう。
<謝罪・反省なし>
 神社神道が国際社会で認知されるためには、まずは歴史に真正面から立ち向かう必要がある。過去を清算する必要がある。それを行動で示す責任と義務があるのである。
 謝罪と反省のない組織・団体・国は、再び同じ過ちを繰り返すだろう。まともな対応をする宗教では、寄付の強要などしないはずである。神社が寄付を個人に呼び掛けることは、自由である、許されている。ただし、気の進まない家庭に対して強要すれば、大きな人権侵害事件となる。
憲法は信教の自由を保障>
 戦後の日本国憲法は、2度と同じ過ちをしないために政教分離を貫いている。政治と宗教は、分離している。政治の宗教利用を禁じ、逆に宗教の政治利用を禁じている。そうすることで、宗教による戦意高揚という、おぞましい戦争宗教の存在を否定、禁じている。
 近代憲法の立場を、日本国憲法は貫いている。これは日本人として誇っていいだろう。戦争放棄の9条は世界に唯一誇れるものだ。ところが、狂ってしまっている自民党の安倍総裁は、東條内閣の商工大臣として敗戦後、A級戦犯容疑者となった祖父・岸信介の理念でもって、誇れる憲法を改悪すると言う公約を掲げている。
 こんな政党に再び政権を任せていいわけが無い。
<戦争を心配する戦中派>
 筆者は友人からのお土産と、自分で買った月餅を、世話になっている親類に「中国土産」にと配った。日本敗戦時15歳だった親類にも、中秋の名月に間に合うように持参した。そこで意外な反応にびっくりさせられた。
 あいさつすると冒頭「もう中国には行っていないと思っていた」というのである。日本と中国の間の往来は無くなっている、と信じ込んでいたのだ。新聞テレビの影響だ。
 「何も危険なことはない。こうして日本に帰ってきている」という説明までしなければなかった。
 この後の一言に仰天してしまった。「戦争になると、若い者が死んでゆく。心配でならない」というのだ。戦中派の深刻すぎる不安である。万が一にもありえないことであるが、戦中派はそうではない。今の野田内閣や石原、それに先の自民党総裁選での極右候補の叫びから「戦争になる」と怯えているのだ。

 ありえない万一が起きても、もはや天皇国家主義の日本ではない、神社神道に心を支配されている日本人はいない。祭礼に参加する市民も反発するだろう。戦争反対に市民の多くが立ち上がる。「日本人の平和主義」への信仰は、宇都宮徳馬ではないが、強固なものだ。
 いかに右翼のメディアがわめいても、それこそ平和市民は首相官邸を包囲して戦争内閣を1日で倒すだろう。それくらいの馬力を持っている日本人のはずである。
 安心させて辞去したのだが、戦争体験者の恐怖は、そうでない安倍や野田らとは違うという事実を悟らされた。月餅の成果となった。
2012年10月1日8時35分記