核燃料リサイクルという夢は破壊への欲情か?

黄泉の国から   岩下俊三(旧姓)のブログ


絶対にこたえられない誰にも答えが出せない問というものがある。釈迦はそれでも問うた。その不可能と思われる回答をしたのがただ一人文殊菩薩であったと言われる。だから答えらえない問に答えた答えは、どうしても理論的観念的には成立しても実現化、具体化はしないのである。夢の高速増殖炉もんじゅ」は、がゆえに、そもそも稼働しないことを前提にした「答え」だったのである。

わかりやすく言おう。

エネルギーが不足するから原子力発電をしたい、が燃料が足りなくなるかもしれないし、発電の結果生じるモノを捨てるところがない。さあどうする?答えは簡単。じゃやめましょう。、、、、でも諸般の事情で、、、というより私の利権でもありますし、、、いずれにしても原子力発電を「やります」。だからどうするか?そのうち考えましょう。

しかし答えはでないままにすでに日本中に原子力発電所はできてしまった。使用済み燃料はすてるところがないままにたまるいっぽうである。

だからとりあえず実現は不可能だけど、核燃料リサイクルという「夢の」システムを考えてみました。それが「答え」であった。しかし哲学的な、観念だけの答えが実現することは未来永劫ないのである。

さいしょから、そう思っていてわざとつけたのかもしれない。「もんじゅ」という名にすれば文殊のように観念的にならないと「期待」したのか、いずれにしても高速増殖炉もんじゅ」はいまだに稼働できないし、その前提となる再処理工場の本格稼働すらできていないのである。さらには、現在稼働中の原子力発電所からでる核のゴミを直接廃棄することはできない。なぜなら、核燃料リサイクルという「できもしない」答えをだしている以上、六ヶ所村の再処理や高速増殖炉で使用する予定になっているから原発から出た核のゴミは勝手にすててはいけないのだ。

問題は明確である。これが机上の空論であればいくらでも空想すればいいのであるし、延々と哲学論争をやればいい。しかし「すでに」このシステムに巨額の予算がつかわれ、いまだに故障だ事故だと称して一キロも電力もうみだしていない。研究開発の無駄使いはとうぜんだろうがあまりにも大きい。桁がちがうのである。

貧乏な親が、莫大な賭博に金を浪費している息子にいつまで寛容でいられるのでしょうか。まして親ではない国民が電気量としてあるいは税金として払ったお金が、すでに何兆円もつかわれているのを黙認しろと言っている。そして、それでも寛容な国民はそれを推進する政権を許している。許すどころか応援している。それもいいだろう。学者の夢に投資するのも悪くないだろう。どうせ金は天下のまわりものだ。諦めよう。

しかしそれでもたとえ諦めても問題は残る。ひとに迷惑をかけなければ放蕩無頼のバカ息子もしかたないかもしれない。ただし「もんじゅ」のばあいは、もし事故がおこれば、地球の北半球に人が住めなくなるかもしれないのだから諦められない。カネなら諦められるが、「生存」をお上なんかに言われて諦めるわけにはいかない。つまりマッド科学者が世界を滅ぼしてしまいかねないのであることもふくめて認めろということだ。

僕自身は世界が滅んでも構わない。でも、みんなそう思っているのだろうか。実は核を開発した連中はそういうことは考えてもいない。自分の利益のために、なにがあっても自分とは関係ないと思っているのだ。哲学的命題とは実際の発電所の技術者は関係ないと思っている。しかし、何万年も危険な物質を保有し、世界が吹っ飛ぶほどの「実験」を、こまかい私利私欲のためにおこない、なんの自覚も責任感もない原子力ムラの住民たちを放置していいのだろうか。

国民の大多数がそれでいいんならそれでいいだろう。ただ知らされていないだけなら、知らせるべきマスコミの怠慢であり、知らしむべき政府の国家的犯罪というべきである。