♪〜今日も涙の日が落ちる、日が落ちる〜♪

黄泉の国から   「岩下俊三(旧姓)のブログ」からリユーアル


僕は個人的にパチンコなどに興味はないし競馬も全く知らない。ただ競馬場の近くを歩いたり温泉場にポツンとあるスマートボールなどをガラス越しにのぞくと人生ってものの哀愁を感じることがある。しかしそんな昭和の時代は終わったのだろうか。

先日こんな記事があった、、、
「 生活保護費や児童扶養手当を市民がギャンブルで過度に浪費することを禁止し、浪費を見つけた場合、市民に情報提供を求める兵庫県小野市の条例が27日午後の市議会本会議で可決、成立した。施行は4月1日。

 小野市福祉給付制度適正化条例は、公的な福祉制度の適正な運用を目的とし、受給者が生活を維持できなくなるまで生活保護費をギャンブルに使うことを禁止。浪費を見つけた市民には、市に通報することを「責務」として定める。」、、、

もちろん生活保護の不正自給をしているやくざもんは断固排除すべきだ。しかし、それとこの記事の示している意味は全く違う。ついに日本は東ドイツのシュタージー(秘密警察)の存在を予感させる「密告社会」になりはじめたか、、、と思うと暗澹たる気持ちになる。

と同時に、弱肉強食の未来の到来も身の前にあると感じぞっとした。

弱者が弱者を弾圧するという図式は昔からあるが、現代のように格差が広がるとそれが顕著になるようだ。つまり生活保護子ども手当、母子年金、障害者保護などが手厚すぎるとかいうひとに限って貧困な若者層が多いという現実がある。

論理の逆転は知能の低い人にしばしば見られる現象だが、この例でいえば自分の所得より生活保護の金額が
「僅かに」上回っているのでそれを削減しろと言って類のものであり、それがエスカレートするとだれだれが生活保護の癖に旨いもん食っていたとかパチンコをしてたからゆるせないということになる。この僅かな差異への嫉妬こそ権力者を安心させるのだ。

この単純な論理の逆転が主に貧困層に広まっている。つまり生活保護より低い給与金額しかないのならそれを強制的に上げてでも生活保護の水準以上にすべきであって、生活保護の水準を下げるべきというのは本末転倒であるということなのだけれど、国の弱者切り捨てや自治体の密告社会などの政策をこの勘違いの逆転発想が後押ししている。

為政者の思うつぼとはこのことである。

土建屋と組んだ公共事業や米軍基地への思いやり予算ハコモノ行政などに何億何兆もつかわれているは許すけどたった数万もらって気晴らしに遊興に使っているのは許さない、これを密告して市民としての「責務」を果たすべきである。こんな息苦しくて人情の枯れた社会には、すくなくても「俺は」絶対に棲みたくない!!

ちょうどいま政府は国民背番号制度を進めようとしている。それで個人は完璧に管理され、一人ひとりが番号で認識されるのだ。個人の特徴や歴史、もっている財布や心の中身まで、、、そしてもっとも重要な「自由」が奪われようとしているのだ。

人間にとって最も重要なことの一つが「自由」であることは言うまでもない。

なぜ犯罪が抑止されてるかと言えば監獄に行かされるからである、なぜ行かされるの嫌かといえば、、、、それは食べ物でも着るもののことではない、、、自由の束縛があるからである。僕の友人に28年間獄中にいた者がいるけれど獄の中での暮らしは意外と快適だったというが、自由の束縛には鬱とせざるをえなかったという。

だれもが行きたいところに行き、したいことをしたい、許されるなら小鳥のように自由に空を飛んでみたい。風の吹くまま気の向くまま出かけることができて、はじめて悲喜こもごもの人生が存在するのだ。


僕は仕事で外国から帰ると、かならず日本でしか味わえないライスカレーを食べ「フーテンの寅」さんを見ていた。そして、そこでしみじみと自分が生きていることの喜びをいつも確かめていた。

寅さんの映画は劇場やビデオですべて何度も繰り返しみているが、そんななかでも彼が暑いさなか田舎の橋の上でアイスキャンディを一本買う場面がある。この何気ないしぐさのなかに生きていること、そして何よりも「自由」であること、日本人であってよかったと感じたりしたものである。

しかし監視社会はもう自由人「寅」さんの存在を許容くなっていくのだろう。

日本でもアメリカでもそうだが1%の超富裕層だけに富が集中し、圧倒的多数の最下層をいかに黙らせるかが最大の課題となっている。そのため最も有効な手段は、貧困層同志を互いに嫉妬させ争わせ監視させあうことである。

日本の世の中から「寅」サン的な人、ドジで間抜けでたまにはちいさな悪さもするような、風来坊を徹底排除するプロジェクトが始まったのかもしれない。僕はもう歳だからあとは死ぬだけだからいいが、これから先があるひとは国家や行政に監視され続けることをほんとうに良しとしているのだろうか?

小野市の条例は気味の悪い未来の姿を暗示しているように思えてならない。