またもや頓珍漢な外務省。松岡洋右の二の舞

黄泉の国から   「岩下俊三(旧姓)のブログ」からリユーアル


六ヶ所村での核燃料再稼働をもくろんでいるらしい。出稼ぎしかなかった極貧の村が近代化した富に溢れているがそこだけ突出したこの豊かな村はもう後戻りはできない。それにしても稼働して再生産されたプルトニウムはなんに使うのだろうか。ここに実は日本が抱えた最大の問題があると思うのは僕だけだろうか。?????





言うまでもなく核燃料サイクルに使われるはずのプルトニウムはすでに「もんじゅ」の点検もれで年内の稼働が絶望的な今必要とはされないはずである。またMOX燃料として使用するにしても殆ど日本の原発は稼働していないから需要はないと思われる。なのに今年の秋にでもさっそく六ヶ所村は稼働する予定であるというのだ。

そこで筆者が問題にしているのは皆が指摘するシャブ漬けの話ではない。つまり一度核関連施設を誘致するといつかは大変なことになると予想できてもじゃぶじゃぶのゼニの快楽に負けて抜け出せなくなるということだが、これは日本の原子力行政の基本だからいまさらそんなこと言っても始まらない。そんなことではなくて、実はとんでもないことがイケイケの安倍政権で進行していると「僕は」感じるのである。

それはなにか。なぜ不要なプルトニウムを増やすのか。

答えは「日本の核武装」である。

順調に再稼働できれるとすれば今後9年で2000発分の核兵器が製造可能でありすでに我が国の外務省が試算まで(約5000億以内で可能)しているのだ。もちろん具体的にすぐ実現するとは思えないが安倍自民党の一部と官僚まで巻き込んだムーブがあるのは確かである。これに早速アメリカの保守派が反応している。一連の歴史修正や慰安婦問題で神経を尖らせている昨今まことしやかにこれを懸念する右寄りのメディアまで現れてきた。



何年たとうが「リメンバーパールハーバー」はアメリカでは生きている。日本に原爆ドームがあるようにである。同様に南京虐殺慰安婦問題は中国や韓国は決して忘れない。でも歴史にこれはという真実はないと思う。いや真実を語ることはむずかしい。その国の情況次第であると言える。しかしながら、もしベルリンの街中でもっと極端にいえばエルサレムのど真ん中で「ホロコーストで虐殺の事実はなかった」とか「疑わしい」といえば逮捕されるか最悪殺されかねない。

つまり国際世論で白と言えば白であり黒と言えば黒である事実とは関係ないのだ。建前で人道主義を貫いていればイラクやアフガンで何人殺そうがアメリカはあくまで人道的であると主張するのはこれである。これを理解できない井の中の蛙(たとえば安倍晋三橋下徹)は本音だからいいだろうと誤解してしまう、困ったものである。

そのような軽薄なウヨクは別にしてなぜ官僚の一部にアメリカさえも驚かす「日本核保有」を画策しているものがいるのだろうか。それは拠らば大樹の影をモットーとしている官僚からすれば対米従属は当たり前のはずであるのになぜ核保有など言い出すのだろうか。それはその大樹=アメリカが変わりつつありいまや中国やロシアなどと世界を分担して統治するという多極化が避けられない事情を見越してのことだと思えてならない。つまり日米同盟の効力がいつまで有効か分からない。生鮮食品に賞味期限があるように同盟だって賞味期限が永遠であるはずがない、、、と考えたに相違ないのだ。

日本核武装論は何も北朝鮮テポドン人民解放軍の空母遼寧に対抗しようというのではない。アメリカの抑止力の限界をまたは衰えを危惧した官僚の浅知恵がいざというときにそなえた自国独自の抑止力という発想である。つまり約70年ほどまえに犯した軍「官僚」の過ちを再び繰り返そうとしているのだ。

いい悪いとか是非など外交にはあり得ない。それが分からない官僚の世界情勢を見る目の鈍さは相変わらずである。世界世論を敵にしてまだ軍事的抑止力でなんとかなると考えているらしい。それで「核武装」というのなら北朝鮮とどこがちがうのだろう。

イケイケで国際連盟を脱退し国際世論を敵にして颯爽と横浜港に降り立った松岡洋右を喚起で迎えた群衆、それを称える新聞、それを利用した軍官僚がどんな結末を迎えたかすっかり忘れたしまったようである。のど元過ぎれば熱さ忘れるとはこのことだ。まだ国連(連合国)の敵国条項に日本があることを知らないとは言わせない。

危険なウヨの軽薄な言動が日本の孤立化を深めついには核武装まで想定した日本外務省はまだ第二次大戦の敗因が分かっていないらしい。敗因が戦術として情報戦に完敗し国際世論にたいする嗅覚がなかったことに尽きているというのに。ばっかじゃなかろか。

ちなみに元外務省出の外務大臣松岡洋右は若いときアメリカで育っていて世界情勢に詳しいと自慢していたし英語を得意としていた。今の外務官僚と何も変わらない、ただ英語ができれば国際的だと思い込んでいる。加えて国際情勢に鈍感なところまでである。そろいもそろったばかとしか言いようがない。

それにしても、ふたたび「一生の不覚」となりそうな「新」核武装論ではある。