本澤二郎の「日本の風景」(1445)

森ゆうこ著「検察の罠」(日本文芸社)>
 ある時期、偶然にネット掲示板「阿修羅」で、当時参院議員の森ゆうこさんの活躍が目に止まった。小沢事件における検察の不当捜査と対決していた。その勇気ある行動に感銘を覚えたものだ。最高裁傘下の検察審査会の腐敗も暴いていたことが、特に印象に残っていた。一度会ってみたいと思ったのだが、7月の参院選で落選してしまった。「生活の党」がどこか知らない政治評論家だ。先日、同じ政党の谷亮子議員の部屋に電話した。誰も電話に出ない。小沢一郎事務所にかけたが、ここも留守だ。やむなく青木愛事務所にかけると、留守番秘書を名乗る人物が出た。彼は、なんと党本部の電話番号も知らないという。最後の手段は、ネットで森事務所を探すしかなかった。ようやく神奈川県の連絡事務所とそこの電話番号が1つだけ見つかった。幸運にも連絡がついた。筆者を知っているという秘書が、森ゆうこ著「検察の罠」を贈ってくれた。


<関熊秘書に連絡>
 その時、彼は九州へ向かう途中だった。森講演会が行われるためだという。落選後も全国を飛び歩いている彼女を想像出来た。筆者のことを知っているという関熊秘書だったお陰で、当方の希望を直ぐに理解してくれた。
 これは実にありがたいことだった。現役政治記者のころは、毎日、自民党議員の部屋を5,6カ所渡り歩いていた。そのため、平河クラブや永田クラブでの幹事長や官房長官の会見をボイコット、共同通信原稿に任せたものだ。派閥の懇談には通った。現場の生の声を活字にして、インサイドの記事を毎日書き続けて20年の政治記者を卒業した。足腰の軽さは永田町や平河町一番だった、と自負している。
 そのせいか初めて出会う議員や秘書は、筆者のことをよく知っていてくれた。これが財産だった。警視庁長官・法務大臣を歴任したハタ野章さんは「現場100返ぺん」という言葉を教えてくれた。
 現在は自宅で、こうして好きな文章を書くだけだが、それでも覚えてくれている永田町住人に感謝したい気分だ。
<ベストセラー本届く>
 関熊秘書の配慮でベストセラー本「検察の罠」が届いた。少しでもましな世の中にしようとの欲求が強いと、人間だれしも勇気が出るものだが、彼女もそんな一人だった。活字を通して理解できる。
 小沢事件は年金問題の表面化で、自公政権が総崩れする場面で、突如として東京地検特捜部によって浮上した。単なる政治資金規正法違反事件である。従来から「修正申告」で処理されてきたものだ。これは明らかに「怪しい捜査」と受け止めたのだが、それでも新聞テレビは検察の垂れ流す情報を列島にまき散らした。小沢は民主党代表を降りて、鳩山由紀夫にバトンタッチして政権は民意により交代した。
 これは日本の政治史上、画期的なもので、いうなれば市民革命と呼べるものだった。官僚任せの自民党政治を止める、ワシントン服従を対等にする、という公約を評価した筆者である。これを押しつぶす先兵が検察だった。CIAを巻き込んだ壮大なる権力闘争だったのだが、なにしろ新聞テレビを旧体制は牛耳っていた。ここが新体制の多いなる誤算だった。ひ弱な民主党政権は、野田内閣の大嘘と菅内閣の3・11処理の失敗で、政権は元に戻ってしまった。

 相次いだ衆参選挙について不正が行われたのか?米国大統領選挙に次いで、日本でも不正選挙が、現在は韓国でも起きている。先日の川崎市長選挙で自公民の候補が敗北した。同市は問題の選挙処理会社「ムサシ」の投開票機器を利用しなかった。
<死を恐れない強さに脱帽>
 この本の副題は「小沢一郎抹殺計画の真相」である。小沢には次々と側近に逃げられるという不運続きが、致命傷となってきたが、彼女の死を恐れない忠誠にはあきれるばかりだ。
 世の中は裏切りの連鎖で動いている。特に生き馬の目を抜く政界は、それが日常茶飯事である。彼女は法的に市民の生殺与奪の権限を握る検察に対して、真っ向から小沢の代わりに挑戦状をたたきつけて小気味よい。
 パキスタンのマララちゃんのように人間は死を恐れなくなると、もはや怖いものはない。窮鼠猫をかむことが当たり前になる。

 先に村木厚子さんの検察の不当な取り調べの実態を、日本記者クラブでの記者会見から紹介したが、森さんも、事件捜査とは無関係の秘書を罠にかけて、一時的に拘束して取り調べた検察・検事に対して「絶対に許せない」と怒りのペンを走らせていた。
 2010年2月の週刊朝日に掲載された「上杉隆氏執筆の記事を読んで、私は生まれて初めて目の前が真っ赤になるほどの怒りを覚えた」という。民野検事の名前を上げて厳しく非難した。
 その記事は、2010年1月26日の昼ごろ、石川議員の女性秘書に東京地検特捜部から電話が入った。「押収品の返却をしたい」という口実で呼んだ。罠だった。秘書は「被疑者として呼んだ」と告げられ、携帯電話を切られた。任意の事情聴取だが、事実上の監禁・拘束して深夜になって放免した、という内容である。
 事件は石川が小沢秘書時代のことで、彼女は無関係な第3者である。不思議な捜査・取り調べである。検事はなんでも出来るのか。森さんは、この記事を読んで怒りで震えあがったのだ。
 女性秘書は2人の幼子を保育園に預けていた。夕刻には迎えに行かねばならない。そのことを検事に訴えても聞き入れなかった。人権侵害の卑劣な取り調べである。こうして手にした証言に証拠能力はない。
<犯罪製造機?>
 村木さんの記者会見でも語られていたことだが、検察はあらかじめ事件のあらすじを決めている。それに沿うような供述を強要してくる。異なる供述を調書には記録しない。
 検察に都合のよい部分だけを押し付けてくる。「署名しろ」と攻め立てる。応じないと、あれこれと弱点を突きつけて、最後はサインさせる。脅迫で得た調書を裁判官は、証拠と認定して有罪とする。
 白でも黒にする。その才能・テクニックのある検事が有能とされ、出世階段をスイスイと昇ってゆく。日本の検察は、犯罪製造機そのものと言われかねない。信頼も尊敬もない検事ではないか。
 善良な検事もいるに違いないが、彼らが有能で出世するということはない。
<物的証拠第1主義>
 犯罪はつくれるし、現に作られてきた。冤罪は相当あるのであろう。
 逆に、罪を犯した悪しき人間を意図的に逃がすということもある。生殺与奪の権限を握っている検事である。ロッキード事件の最重要人物は、捜査線上に登ることなく逃げきって、今も生きている。
 苦労人の東大法学部卒の山下元利は「もしも田中角栄さんが東大OBであれば、逮捕されることはなかったのだが」と言って悔しがったものである。立派な法律も、運用者によって自在に乱用されている。これが日本の司法なのである。
 自白偏重の検察捜査はもはや許されようがない。客観的な証拠、物的証拠を決め手とする近代捜査に切り替える時である。「検察の罠」は、こうしたことにも警鐘を鳴らしている。

 「検察に舐められるな」「新聞テレビに舐められるな」という森さんの思いも込められている本である。筆者は彼女の検察審査会へのメスに興味をもっている。実はまだ半分しか読んでいない。
2013年10月31日10時55分記