「フェードアウト」について

内田樹の研究室


日本維新の会の選挙公約が「日替わり」状態になっている。
少し前に、「今度の選挙では告示前日まで選挙公約が二転三転するだろう」とあるメディアに書いた。
どうしてもこれだけは実現したいという政策があるわけではなく、どうしても議席が欲しいから選挙に出ている人たちにとって喫緊の問題は「どういう政策を掲げれば票が集まるか」だからである。
日本維新の会の選挙公約「骨太2013-2016」では焦点の原発問題については「結果的に30年代までにフェードアウト」という意味のよくわからない文言を採用した。
「30年代までに原発ゼロ」は当初橋下市長自身の主張だった。先月24日にそう言明した。その後、原発推進派の石原慎太郎の太陽の党との合流合意で「脱原発依存」についての言及そのものが消えた。
それによって、維新の会の支持者のうち「脱原発」政策に好感していた人々の支持が目減りした。
危機感を持った維新の会は、原発についての公約を再び掲げることにした。
「結果的に原子力発電は2030年代までにフェードアウトする」というのがそれである。
これはこの政党の原発政策をみごとに表わしている。
それについて書きたい。
この文の主語は誰が読んでも「原子力発電」である。
原子力発電が人格を持っていて、おのれの意思によって、2030年代までに「徐々に見えなくなる」。
そう書いてある。
「明日の夕方までには雨は上がるでしょう」というようなのと同じ表現である。
諸般の事情でたぶんそうなるだろうという「見込み」を語っているだけで、政党の主体的関与については何一つ語っていない。
だから、仮にこの文の通りに原発が「フェードアウト」しなかった場合でも、それは「原子力発電」の側の事情であって、フェードアウトを予測した政党には何の責任もない。
もっと重要なのは「フェードアウト」という英語の動詞の語義である。
あるかなしか不分明であるというのが「フェードアウト」という語のニュアンスである。
あるかないかわからないのであるから、「フェードアウト」した原発はまだその辺で稼働しているかも知れない。
視野から消えれば、視野の外に存在していても、立派な「フェードアウト」である。
フェードアウトのかんどころか存否の事実を問うていないことにある。
だから、「フェードアウト」は「しぼむ」「衰える」の意味で用いられる。
この場合はもちろん事物的には存在する。
量的に減じたり、目立たなくなっても、「フェードアウト」である。
この文言を考えた維新の会の人間はそういうことを全部わかっていてこの語を選んだはずである。だから、石原代表にもそう説明したはずである。
「石原さん、ご心配なく。『フェードアウト』っていうのは『なくなる』っていう意味じゃありませんよ。たぶん有権者はそう誤解して『脱原発』だと思い込むでしょうけれどそうじゃありません。全発電量のうち原発のシェアが1%でも減れば立派な『しぼみ』です。あちこちにちらばって建っていた原発を少しまとめて一目に立たないところにまとめれば、これも立派な『おぼろげ』です。そういうことなんですよ。こんな英語にころっと騙されるやつがバカなんです」
そう説明されて、有権者はほんとにバカだからなあと笑顔を交わしている石原慎太郎橋下徹の姿が想像できるようである。