本澤二郎の99北京旅日記(2)

<閑散・外国人の入国>
 最近のデルタ航空の音楽サービスは悪くない。天才音楽家のベートーベンの交響曲と一緒なので、北京までの空の旅は退屈しなかった。周囲の乗客は映画に熱中していた。機上する前に、久しぶり一人ビールで乾杯したものだから、トイレが近くなったため、席を通路側にしてもらった。中国人女性は喜んで協力してくれた。機内でも青島ビールを飲んでしまった。


 デルタ航空アメリカ・日本・中国のビールを用意してくれていたので、即座に青島ビールを注文してしまった。それというのも、30年以上も前になろうか、夕刻時に参院議院の宇都宮徳馬事務所に顔を出すと、決まって主人が秘書の太田嬢を読んで、冷えたビールを運ばせてきた。それが青島ビールだった。
 以来、青島ファンになってしまった。
 深夜の北京空港は閑散としていた。デルタの乗客が一斉に入国手続きをするのだが、外国人専用のコーナーに行列は出来ない。この場の主役は、決まって中国人の帰国者である。
 深夜の北京市内の交通はいい。それでも沢山の車が走っている。いつもながら軽自動車は1台も走っていない。
<北京も梅雨?>
 6月4日の北京は曇り空だった。雨が降りそうで降らない。旅人には助かる。傘不要なのだから。「春の雨は油よりも高価である」と教えてくれた中国人がいたが、それは世界中の人々も、同じであろう。この季節に穀物の幹は大きく成長して、秋の実りを約束してくれる。農業に従事している人たちは、特に春の雨が1年の生活を決めるからである。
 このような曇り空と小雨がぱらつく日々が、数日続くことになった。さしずめ日本の梅雨に似た天候である。
中国社会科学院の李薇所長と再会>
 そんなわけで、傘なしで中国社会科学院日本研究所の李薇・胡ホウ正副所長の待つ平安府賓館に向かった。
 中国人との出会いの多くが食事付きである。これは貧乏な旅人にとって、実にありがたいことだ。しかも、場所が平安府ホテルという。名前がいい。平和を愛する庶民、緊張や戦争を暴利ビジネスと考える財閥とその手先であるナショナリストが、この地上に存在するが、今の日本は後者が支配してしまっている。2人は若手の研究者を二人同行させていた。後継者育成にも心がけるリーダーなのである。
 歴代の所長との交流は長いが、女性所長は珍しい。彼女とは2度目であるが、じっくりと意見交換するのは、今回が初めてである。女性の感度は鋭いモノがある。研究所の改革に必死である。話をしていて、それがびりびりと伝わってくる。驚いたことに、彼女は北京外国語大の通称、大平学校(日本学センター)の1期生であることがわかった。
 嬉しい悲鳴だ。筆者が初めて政治記者となって担当したのが自民党大平派。72年の総裁選挙では毎日、大平話を聞いて記事にしてきた。その大平の遺産が、今回訪問する北京外大の日本学センターなのである。99回訪中で、そことの出会いが実現することになるのだ。
<大平学校は拡大発展>
 彼女は大平学校の歴史を語ってくれた。79年12月の大平訪中に特派員記者として同行した筆者だが、大平学校は80年に設立された。「79年の改革開放政策を生かす人材の育成として、毎年120人の日本語の教員を育成、5年間続けた」というのだ。
 単なる日本語教師ではない。訒小平の改革開放の戦士の育成なのだった。「次いで若手の研究者を毎年20人育成、さらに博士を養成してきている」という。中国では大学の修士・博士という資格は、特別の意味があるようだ。
 「語学から経済・政治などあらゆる分野の専門家・博士を養成するように提案している」とも語ってくれた。
 原発反対の先頭に立っている大江健三郎のことが話題になった。すると彼女は、大江家の家庭の状況を話してくれた。筆者が初めて知る大江家の苦悩の姿である。つい我が家のことも話してしまった。
<日本属国に気付く?>
 彼女は、北京訪問中の野中広務(元自民党幹事長)が中国の政治局常務委員との会談で「尖閣(釣魚)問題は棚上げで合意した、と田中角栄さんから直接聞いた、と語ったようだ」と最新情報を披歴した。当時の様子を知る者には常識に属する内容である。それを野中は、田中本人から聞いていたのだ。

 安倍の訪米みやげの一つに元駐日大使のシーファーが、安倍を前にして彼の歴史認識に対して、テーブルをたたいてしかりつけた、ということから彼女は「日米関係の真実を露見させている」と指摘した。
 日本は独立国ではない。日本は米国の属国なのである。これに挑戦した鳩山内閣小沢一郎は、官権と新聞テレビによって撃破されてしまった。日本という姿が露わになってきていることは、日本を知る上で貴重なのだ。
 なぜ日本独立に新聞テレビや官権が、ワシントンの側に従ったのか?ここから日本の真実が透けて見えてくるだろう。
2013年6月6日記