本澤二郎の「日本の風景」(1352)

靖国参拝天皇国家主義
 隣国との外交関係を破壊しても、それでも靖国参拝を強行する極右首相は、中曽根康弘小泉純一郎そして現在の安倍晋三である。侵略戦争さえも受け入れようとしない安倍首相は、「強い日本を作る」「改憲軍拡だ」とわめいて、特に突出している。平和憲法を蔑視してやまない。戦前体制である天皇国家主義憲法に作り替えようと必死だ。ドイツでは起こり得ない事態が、東アジアの一角で表面化している。しかし、この深刻で重大事態に、国民も隣人も無関心だ。中身を知らないからである。新聞テレビが警鐘報道を全くしないからだ。




天皇中心の神の国
 自民党右翼議員が靖国神社参拝にこだわりを見せていたことは、自民党取材を始めた40年前から気付いていたが、それがなぜなのか、と深く考えたことはなかった。神社・神道についても関心が薄かったせいでもある。
 日本のいたるところに神社はある。多くが朽ち果てようとしている、みすぼらしい社(やしろ)が散らばっている。自民党との長い交流の中で、神社に仕える神主が、議員秘書をしていることに驚いたが、そんな彼は神道の野望について語ろうとしなかったし、こちらから聞こうともしなかった。
 一人神主から政界に転じた人物がいたが、格別に改憲をわめくわけではなかったので、あえて取材する気持にもなれなかった。宗教への無知と無関心は、多くの日本人にも当てはまろう。

 そんなわけで、森喜朗首相が「日本は天皇中心の神の国」という途方もない発言をするまでは、誰しもが関心を抱かなかった。時代錯誤だと片づけてしまい、この森発言の恐ろしさを調べようとはしなかった。その前の中曽根首相の8・15参拝にしても、中国の激しい怒りに遭遇すると、彼は1度で止めたため、気にも留めなかった。
 6回も靖国参拝を強行した小泉首相、それを後押ししていた安倍が官邸から去ると、人々はまた忘れてしまった。だが、再登板の安倍は参院選圧勝を好機と受け止め、2013年8月15日を目前にしている。これにワシントン・ソウル・北京が深刻に見守っている。
最近になって筆者は、靖国参拝の核心は森発言にあると確信するに至った。戦前の日本国家主義は、一般に指摘されてきた体制ではない。天皇国家主義という特異な高圧的政治体制の根幹は、政治と宗教を一体化させた、政教一致の非近代的政治体制にある。安倍改憲論の根っこは、ここから派生している。筆者が安倍内閣を警戒し、批判するゆえんでもある。
 日本国憲法は、この明治の神がかった狂気の政治体制を否定して成り立っている。逆に国家主義者・ナショナリストにとって、平和憲法はもっとも好ましからざる憲法ということになる。その反撃の手段が「アメリカに押し付けられたもの」という一言で押しつぶそうとしている。
靖国参拝政教一致体制>
 戦後史をひも解けば、敗戦を待ち望んでいた国民は多かった。かの宮澤喜一元首相でさえも「日本敗戦でほっとした。電灯のつく生活に戻れる」という感慨でもって8・15を迎えた。息子や恋人、夫を奪う戦争の恐怖に怯えていた当時の民衆は、8・15とその後の平和憲法の誕生に狂喜したものである。
 新憲法誕生時の国民の歓喜の様子を、筆者はオクノシロウという日系米人から聞いたことがある。1993年のことだ。アメリカ押し付け論は戦争責任者の言い分である。
 「赤紙」さえも知らない世代の日本であるが、この1枚の紙切れで無辜の民を戦場に駆り出すシステムが、靖国を軸にした政教一致国家主義だった。靖国無くして、民衆を人殺しの兵士にすることは不可能だった。
 「天皇のために死ぬことが男の本懐。靖国の英霊となれる」という時代がかった悪魔の制度が、数々の侵略戦争を可能にしたものである。ナショナリストにとって靖国は、政治活動の根幹となっていたのである。
A級戦犯の合祀>
 従って、多くの国民や国際社会が戦争責任者・戦争犯罪人と断罪している人物は、彼らにとって英雄であり、立派な英霊の最高峰に位置づけられる。A級戦犯靖国神社への合祀は、彼らにとって正当化される。
 ところで、資本は強欲なものである。政商となって肥大化、官僚や政治家、軍人を駆り立てて戦争を引き起こして、暴利を手にする悪魔の財閥・1%にとった。彼らには、天皇国家主義ほど扱いやすい政治制度はない。
 本来は、彼らこそが本当の戦争犯罪人であるのだが、GHQは財閥を解体、政治追放することでお茶を濁してしまった。
<戦争責任を否定>
 「戦争責任者こそが英雄である」とする狂気の天皇国家主義の論理に目を向けるべきだ。安倍が、戦争責任について口を濁すのも当然だろう。神である天皇は「神聖にして犯すべからず」の存在である。天皇の戦争に責任などあろうはずがない、という狂気の論理なのだから。国際法も、こうした論理についてゆけない。
 バチカンヒトラーとの戦争責任について確か謝罪したはずだが、神社・神道は戦争責任を未だ回避したままである。
侵略戦争も否定>
 過去に中曽根首相が、渋々野党議員の追及に対して「侵略」を認めたという事実を承知している。安倍はこれさえも認めようとしていない。悪辣なのだが、彼こそが本物の天皇国家主義者といえる。
 安倍に智恵をつけている人物を知らないが、彼は歴史学者の仕事だといって逃げる。これではオバマでも、安倍を擁護など出来ないだろう。
天皇元首論>
 中曽根の憲法改悪論の骨格は、9条解体と天皇元首論である。「明治に戻れ」というのだ。現在の象徴天皇制を否定したいのだ。
 政教一致の体制に引き戻すことに異常な熱意を抱いているのだろう。彼の東京帝大の恩師は、有名な国粋主義者で知られる。岸信介もそうだった。1945年8月15日においても、彼らに反省も謝罪もないのだ。その影響を、安倍は祖父の岸から継承している。
国家主義否定の日本国憲法
 日本国憲法は、日本国民が主権者であることを前文で高らかに謳っている近代憲法・リベラル憲法である。国家主義政教一致明治憲法を全面否定している。今日では、しごく当たり前のルールを受け入れた民主憲法である。
 戦後世界は、国家主義を否定する秩序で成り立っている。靖国参拝は時代に逆行している。歴史を知らない日本人は多い。戦後の教育の悪しき成果である。しかし、だからといってナショナリズム憲法を復活させることに、世界は納得しない。グローバリズムが、安倍ナショナリストの壁となっている。
<象徴天皇・非軍事規定>
 天皇神格化への逆戻りは、もはや不可能である。
 宇都宮徳馬は、よく「フランス革命を日本人は学ぶべきだ」と力説していた。王政を打倒したフランス革命は、近代を象徴している。自立する国家を約束させる。その点で、占領軍は象徴天皇制でお茶を濁して、宙ぶらりんな民主の日本にしてしまった。自立しない日本である。
 しかし、戦争を放棄した9条は、人類の英知を結集したもので、世界に誇れるものであるが、ナショナリストはこれを屈辱と受け止めている。9条無くして日本は国際社会に受け入れられることはなかったのだが。
 9条こそが、現在の疲弊した日本再建を可能にしている。国家主義者は、反対に戦争の出来る日本に改造することだと考え、安倍はその突破口を開こうとしている。そんな人物に支配される日本が情けない。背後の財閥は、依然として姿を見せていない。
 人類が政教一致靖国を甘く見ると、大変な事態を招きかねないだろう。
2013年7月22日6時10分記