あの馬鹿殿だって五月蠅い家老のクワマンを首にしてないのに。

黄泉の国から   「岩下俊三(旧姓)のブログ」からリユーアル


内閣法制局というのは憲法の独自の解釈をもって違憲のチェックをしている法的な機関である。したがってたびたび時の政権と摩擦を生じてきたが、その「高い独立性」は固辞され続け、結局この機関の意見が時の政府の「公式見解」の歴史となってきたのである。

これについては反発も多く、内閣総理大臣や国会を超越して、法制局独自の一字一句にこだわり過ぎたあまりにも衒学すぎる法解釈が、「法匪」と揶揄されることも歴代政権運営のなかでしばしばみられてきたのも、また事実だ。

そのなかで、とくに顕著なのが集団的自衛権の問題である。憲法を真面目に解読すれば「もし」自然権である国家の「自衛権」を認めるとするならば(僕は認めていないが)、当然集団的自衛の「権利」はあるというのが法理論的な流れであろう。(僕は個人的にそう思わないが)

しかし権利はあるけれども集団的自衛権の「行使」は認められないというのが法制局の一貫した憲法解釈であり、政府の公式見解であった。そして歴代内閣も「じぶしぶ」これを認めていたのである。だから結果的に68年間我が国は戦争に巻き込まれることもなく、この解釈が軍事力の暴走の歯止めになってきたのだ。(注:僕は善悪正誤を言っているのではなく事実を述べているだけなんですけど)


ところがこのたび憲法改正が容易でないと考えた安倍晋三は、今までこの機関の独立性を保つため同じ局内で順送りにあがってきた生え抜きがずっと法制局長官であったのを廃して、自分の意にままにになる任意の外交官を強引に長官に送り込むことにしたのである。

時の政府から独立しているからこそ「〜の番人」と言われるのであったが、「物価の番人」である日銀総裁を自分の意向で首を挿げ替えたように、今度は「憲法の番人」である内閣法制局長官の首も挿げ替えたのである。

もちろん僕は1998年から法制局にいて長官に上り詰めた山本 庸幸を擁護するつもりはないが、「集団的自衛権」導入賛成論者の小松一郎駐フランス大使を長官に唐突に持ってくる見え見えの「落下傘人事」は如何にも乱暴であると思う。


安倍晋三は誤解している。

いくら参院選で勝利したからといって、全ての機関の独立性をはく奪して「自分の意のまま」になる人間を各所に配置して独裁体制を築いていいという、国民の承認を得たわけではないのだ。

机上の喧嘩に憧れる体の弱い「好戦的」な下痢ぞう君の妄想と軍事オタクのアンパンマンたちは自分の思いを叶えるために「してはいけません」といううるさい爺の首をはねのけ、カネと権力に甘い蜜によってくる「イエスマン」を後任に据えるという暴挙にでたのである。

厳密に言うとたしかに歴代の内閣法制局にたいして僕は個人的に「何のかんばせあって、、、」という反感がないことはなかったが、それとこれとは次元が違う。気に食わない奴はいらない、言うことを聞く「おべっか」野郎だけで固めるというのはまさに「馬鹿殿」のすることである。

皆さんが馬鹿殿の御時世がいいという判断なら仕方ないけれど、今回の参院選で三バカ大将がフリーハンドを得たのではなくて単に選挙制度の欠陥であったとするならば、民にとってこれほど不幸なことはあるまい。


百戦錬磨の軍人は戦争を嫌う、すてごろの本格はもめごとをなるべくおさめようと腐心する。これは人類だけではなくあらゆる生物の原理である。ところが(腰が引けたまま)やたらに突っかかる若に、実は周囲の大人たちはほとほと困り果てているのだ。

利害関係のない少年の直言が待たれる。「王様は裸!」だと、、、。