がんばれ宇多田ヒカル。いつかは悲劇は訪れるのだ。めげるな!

黄泉の国から   「岩下俊三(旧姓)のブログ」からリユーアル


時とは非情なものだとつくづく思う。かのビビアンリーですら時代が求めた女性像に一瞬しか耐えきれず、マリリンモンローもしかり、まことに時の流れとは、はかないものである。合掌


かって僕らの青春がそのように影のあるイメージを求め、藤圭子の儚げで危うい面影が我々の胸に刺さり、見事に「時代の花」を咲かせたのである。しかしそれは隠花植物の華でしかなかったけれど。

貧困な田舎の美少女はいつの間にかあの時代のシンボルになってしまった。彼女の人生は自分との違和感のあるその虚像におびえそこから逃避しつづけたのであるが、結局「薄幸の少女」のままが実人生になって、自殺というエンドマークしか幕引きの方法がなかったのだろうとかんがえてしまう。まことに痛ましい。


僕らに共通する心情をもっとも正確に言い当てていると思われるのが五木寛之のコメントだ。

「1970年のデビューアルバムを聞いたときの衝撃は忘れがたい。これは『演歌』でも、『艶歌』でもなく、まちがいなく『怨歌』だと感じた。ブルースも、ファドも『怨歌』である。当時の人びとの心に宿ったルサンチマンから発した歌だ。このような歌をうたう人は、金子みすゞと同じように、生きづらいのではないか。時代の流れは残酷だとしみじみ思う。日本の歌謡史に流星のように光って消えた歌い手だった。その記憶は長く残るだろう」

しかしまことにその通りだけれども、本当はそれなりに明るくたとえ躁鬱気味ではあったにせよ、躁の時は堰を切ったように思ったことをまくし立てていたそんな普通の女の子をすっかり「やさぐれ」た暗い少女にしてしまった周りの「オジサン」たち(べつに石坂まさをがそうだと言っていないが)つまり時代のクリエイターによって創られた「虚像」藤圭子を彼女はどんなに憎んだことだろうと思う。

思うけれど僕自身ですらその虚像に恋い焦がれ、いつのまにか彼女そのものになっていったと思われるのである。

だから彼女を殺したのは全共闘世代の人間とそれを煽った大人たち(別に吉本隆明だとは言っていない)であるともいえるだろう。

しかし残念ではあるが、昭和の歌姫の逝去は時代の流れで仕方ないにしても平成の歌姫の母でもあったのだから、そのまばゆいばかりに「光」り輝くDNAはヒッキ―に名実ともに受け継がれているはずだ。

娘がこの苦難を克服してくれれば今まで以上にオジサンはフアンになってあげるのだが、、、。

がんばれ宇多田ヒカル