東京都知事選で日本人そのものが試される

黄泉の国から   「岩下俊三(旧姓)のブログ」からリユーアル

そもそも神の世界にしかなかった「火」を盗み出し人類に与えたギリシャ神話に登場するプロメテウスは強靭な不死の神でもある。だから原子力の「火」はその強大なエネルギーゆえに、いつか人類が制御することができなくなる日が来ることを予測してびたび「プロメテウスの火」に擬せられ恐れられてもいたのであった。

そして、ヒロシマナガサキ、スリーマイル、チェルノブイリ、そしてフクシマは人類にそのことを明確に警告しているのである。

「火」の歴史それはもちろん人類だけが持つ「特殊な」生物の歴史でもある。その壮大な人類の「文明史」の最終章に現れた「悪魔の火」=原子力を必要悪として認めるのか、絶対的に否定することから始めるのか、その「火」をつかってこれからも繁栄を続けたいのか、いったんその「火」を収束させてから人類の再生を諮ろうと試みるのか、、、東京都民だけでなく日本国民いや世界の人類の存続という大命題が突然問われてしまったというべきである。

たかが一都市の知事選挙に何を大袈裟なという方もあろう。けれど人間はそもそもどこから来てどこへ行くのかということをなんも考えないし、一回も我々とは一体何なのかと立ち止まったことがなく、日々の生活にのみ没頭し目先の小さな利益しか思わないような人のことをただの「卑怯下劣馬鹿」というのである。そんなひとこそ自民ナンミョウの屋台骨を支え、NHKと税務署の下僕として一生権力の奴隷であり続ければいい。地獄に堕ちたいのなら勝手に落ちなさい、こちらとしてはせいぜい地獄の釜をより熱くするぐらいしかマゾヒストには答えてあげられない、、としか言いようがない。

怒りついでに言うならばおそらく日本で一番醜いゴルファーとして有名な利権屋シンキロウが「オリンピックを人質にとるとは卑怯だ」といったらしいけれど、この男の口から「ひきょう」という言葉がでるのならよく自分自身の人生を振り返ってみるがいい。太った腹の中には汚い札束しか詰まっていない彼の人生で卑怯でないことが一度でもあっただろうか。

シンキロウだけでなく政府の閣僚からもご乱心だとか過去の醜聞だとかネガティヴキャンペーンをマスコミ全面展開で広げている。ところが自民の焦りはますます、原発問題へのワンイッシュ―を逆に盛り上げる形となっている。しかし元総理とはいえ76と72の老人二人が原発ゼロという当たり前の「正論」を述べただけでこれほど反発する自民ナンミョウは見苦しい。

見苦しいといえば舛添の今のカミさんがいくら創価学会だからといって、昔のカミさん(さつき婆)と変わらぬ右翼軍国主義思想でありながら「平和の党=公明党」と意見が同じなので後援をお願いした言うねずみ男の表情の卑屈なこと。これも見苦しい。

べつに細川護煕という18代目の殿がいいと言っているのではない。小泉純一郎というヤクザの三代目がいいと言っているのでもない。またそれは人格高潔にして正義の味方・宇都宮先輩(高校時代の)がダメだと言っているわけでもないということだ。

しかしながら、さりながら、

この細川・小泉・(小沢?)連合という全く政治的立ち位置の異なる三人があらゆる過去を乗り越えてあえて「脱原発」に全てをかけているのはなぜだろうか。下種の勘繰りなど要らない。それぞれ功成り名を挙げているしもともとそれなりのところで生まれており政治道楽さえしなければいずれも「稼ぐ」必要のなかった人たちである。

その彼らが異口同音に晩節を汚すかも知れないのになぜ声高に政治的発言をしているのか、素直に考えてみるがいい。

だから

ここは一番「脱原発」一点突破で盛り上げるしかないのだ。

一寸先は闇、反原発票が割れても割れなくてもどうでもいいことだ。要は東京が抱えているいや日本がいや世界が抱えている最大のそしてただ一つの問題は「原発」でしかないということである。福祉も医療も、オリンピックも
経済も「いきてれば」こその問題である。放射能が蔓延し何万年もなくならない放射能を出していくなか、あくまで即原発を無くさない限り、まして再稼働などしたら、我々の将来などないのである。「ああもしたい」「こうもしたい」というのはまず生存が確保されてからいくらでも侃々諤々やればいいのだ。

政治の最終的な任務は国民の生命を守ることである。それに危機感を感じず相変わらずアベノミックスだNISAだと騒いでいるのがそれでも多数なら東京都民なのか、ついでに日本なんかい?もしそうであれば勝手に滅亡すればいいのだ。僕もこういう民族に生まれ落ちた運命だと思ってもう諦めが付こうと言うものである。

でも、まだ都知事選までは都民や日本人に一縷の望みを持っている。

やはり日本人は安倍の爺さんようなA級戦犯に騙されて敗戦したのか。孫の強欲資本主義に騙され再び焦土
を選ぶのか。つまり国民が何年たってもバカであり続けるのか、すこしは学習したのか、、、が今度試されているのである。