東京都知事選が示す日本政治の将来像

黄泉の国から   「岩下俊三(旧姓)のブログ」からリユーアル

日本の首都・東京都では今知事をだれにするかという選挙戦が行われている。しかし、今回はたかが一自治体の首長を選ぶこと自体にはほとんど意味がない。だって東京という巨大組織にお飾りは実務において誰がというよりなんであろうと何の問題がないからである。むかし遊園地を走っていた先頭の機関車に「お猿さん」が乗っていたけれど、都知事室も椅子に今流行りの「ゆるキャラ」が座っていても都行政にいささかの支障も生じない。改めて慎太郎の登庁日をチェックしなくても、イノシ氏なきあとも都庁の業務が滞ったとは寡聞にして聞いてはいないからである。

医療介護福祉防災その他もろもろ、、、、正直言って95%の都の仕事は誰がなってっもそこそこ遂行される。田母神だろうと宇都宮先輩だろうと弄れる部分はほんの少しであり、実態はほとんど変わらないのだ。

では今回の都知事選の意味は何か?それは「新しい政治体制」への模索の第一歩であり、日本にとって歴史的な意味をもっているのだ。


〜それって、、、「どーゆーこと」〜ヾ(´ω`=´ω`)ノ


かって政治の究極は大きな政府=重税温情か小さな政府=軽税冷酷かの乱暴な選択しかなかったけれど、いずれも国民を白けさせてしまい、特に最近の民主党政権の失策で政治に対する「絶望」は頂点に達していたのであった。

自民党への絶対的票数は伸びていないのに民主党の凋落により圧倒的な議席数を誇ることになった安倍政権ではあるが、安倍晋三自体の党内基盤は脆弱なままであったのだ。そのため、いちど、小泉が「ぶっ壊した」筈の自民党内古狸たちが生き残り、安倍を「モペット晋三ちゃん」にして担ぎ上げ、昔のような規制と既得権に縛られた土建国家を復活させたのである。

つまり安倍の言う「三本の矢」は公共事業既得権益の拡大こそが主目的であり、それが第一の矢「財政出動」なのである。その財政出動を可能にするには「ゼニ」がいる。だったら一万円札を大量に印刷すればいい。それが第二の矢「金融緩和」なのであった。順番が逆なのだ。しかしそれでも第三の矢がなかなか放たれない。当然だ。だって既得権益を守るから規制があるのだから規制緩和や自由な経済活動をされたら古狸(たとえばシンキロウのような)達が困るのだ。モペットに射れる筈がない。

この第三の矢こそ日本経済成長のキーなのだけれど、これがなかなか進まないのにやきもきしていた安倍の政治の師匠・小泉純一郎が突き付けたアンチテーゼが「原発ゼロ」であったのだ。それによって企業の新規参入を促し経済を成長させるというのが「新自由主義者」・小泉の意見である。そのためには手厚く守られた既得権益を守る仕組みつまり規制を撤廃して自由な経済活動を可能にするしかないというのだ。

しかしこの小さな政府による規制撤廃自由主義経済は弱肉強食優勝劣敗のひずみを生む。そこに登場したのがどちらかと言えば社民的な雰囲気を持ちながら、民主党の失敗を観察してやはり「小さな政府」でありながらも
弱肉強食の弊害をなくす手だてもあるかもしれないという鷹揚で泰然自若とした「お殿様」であったのだ。

新自由主義者格差社会の張本人と社民的ではあるが持続可能な緩やかな経済成長「すろ〜ふーど」の合体によって、つまり水と油の合体によって化学反応が起きてしまったのだ。

これが「これこそが」政治における「新しい潮流」である。これを第三の道ともいう。

つまりエネルギーを原発に仕方なく頼って「急ぎ足で」経済成長するのではなく、原発を無くしても「緩やかに」成長を持続する方法があるのではないか。そのためには規制を緩和し新規参入を促すとともに、弱者のへの目配りも
「温情」ではなく小さな政府でも出来る「自立」への手助けをするべきではないか。結果の平等ではなく機会の平等つまりゴールの結果脱落者を援護するのではなく、スタートラインを同じにするという考え方である。

社会的弱者を社会全体で包括した大きな社会、優しい社会が実現できるなら小さな政府でも「やっていけるのではないか」、、、この可能性を示唆しているのが小泉・細川連合なのである。

二択しかなくて民主党に絶望した国民に今まで全くなかった新しい選択肢=政治思想=第三の道を提示した今回の都知事選はこれまでとはちがう原発の是非を巡る「住民投票」でもあるのだ。

小泉や江田憲司は嫌いであるが新自由主義の修正形を模索している。殿さまは社民的ではあるが「小さな政府」を模索している。これをアウフヘーべンと言わずしてなんという。既成政党などもういらないのである。

仏教的にいえばそれこそ「智慧」なのである。だからこそ90才を超えた寂聴が殿さまの宣伝カーに上るのだ。

ゆえに、これからの日本にとってとても重大な意味がこの選挙には「在る」のである。

もとよりこの「第三の道」には泥をがぶる覚悟がいる。原発ゼロによって多少の電気代がかかろうとも、一時的な痛みを分かち合う覚悟がなければこの理想は水泡と帰すであろう。
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蛇足:さいごにこのブログへのコメントで明日の飯さえ不安なのに原発問題もくそもないだろうと言う主旨があったが、これは間違っているとおもう。明日の命が不安でも明日の飯さえ喰えればいいと言うのは本末転倒である。まず生命あるからこそ、腹が減るのだ。