「♪こんな〜女に 誰がした〜」集団的自衛権のそこにあるモノ

岩下俊三のブログ

安倍政権の「前のめり」をウヨクが日本の真の自主独立に資するとして評価しているがそれは大変な考え違いであるといえよう。真実は全く逆であって対米従属を一層深めたいがための「意図」が歴史的な考察不足、、、というより基本的知識が著しく不足しているため彼の軽薄な行動にしばしばご主人様の顰蹙を買っているにすぎないのである。

その卑近な例が靖国参拝であろう。

いままでも、そしてこれからも、安倍晋三の対米従属は一貫しており日本版NSC設置、特定秘密保護法成立、武器輸出三原則の解除、集団的自衛権の行使容認等、その姿勢は性急かつ明確であると言わざるを得ない。にもかかわらず古典的な保守右翼からの称賛を得ようとして靖国参拝というパフォーマンスに及んだことは本人にしてみればCX「わらっていいとも」に出るのと変わらないただの「人気取り」の一環であったろうが、これだけはせっかくいまままで「アメリカ命」として操をまもってきた下痢気味の坊やの大失敗であった。

せっかくアベノミックス詐欺でカネの匂いだけ嗅がせて人気をたもち、その隙に対米従属を徹底させてオバマの歓心をひこうとしていたのにである。

つまり単なる「そそう」だったのだけれど、、、そのために、

それまで積み上げてきた涙ぐましい献身、たとえば米軍基地への日本国土の提供、日本人少女の米軍兵士への差出、米軍への日本国予算の巨額提供、のみならずアメリカの核兵器の原料の日本国内での備蓄(具体的には原発稼働)をやってきたにもかかわらず、アメリカから日本への警戒感すら持たせる結果になったのだ。

あのゴリゴリ右翼である石原慎太郎ですら今では「尖閣」に火をつけ「過ぎた」ことをやや反省しているようであるが、ここへきて安倍晋三が対米従属を短兵急に進めなければならないのは、ご「主人」さまに疑惑をもたれているという「焦り」からのような感じすらするのである。

いま安倍晋三がかっての戦国大名が「人質」を差し出すようにして慌てているのは「集団的自衛権」の行使容認である。ご主人様に露とも疑われないためには若き日本兵士の「血」の提供を保証するしかないのだ。ブーツ・オンザ・グラウンドの実践で身の証を立てねばならん(お前は軍師官兵衛か)。


集団的自衛権についていえばまず思い起こされるのがニカラグア事件であろう。

この事件の詳細については今更言うまでもないが、アメリカが必要とあらばどんなことだってするし、できるんだということを世界中に示した事件であった。つまりどんな表向きの屁理屈をつけても集団的自衛権の名の下で武力行使ができることを印象づけた例でもあったのだ。

しかるにウィキペディアによれば、集団的自衛権の性質を、、、

「個別的自衛権国連憲章成立以前から認められた国家の慣習国際法上の権利であり、上記の国連憲章第51条において個別的自衛権を「固有の権利」としているのはこの点を確認したものである。

集団的自衛権が攻撃を受けていない第三国の権利である以上、実際に集団的自衛権を行使するかどうかは各国の自由であり、通常第三国は武力攻撃を受けた国に対して援助をする義務を負うわけではない[1]。そのため米州共同防衛条約、北大西洋条約、日米安全保障条約などのように、締約国の間で集団的自衛を権利から義務に転換する条約が結ばれることもある。国際慣習法上、相手国の攻撃が差し迫ったものであり他に選択の余地や時間がないという「必要性」と、選択された措置が自衛措置としての限度内のものでなければならないという「均衡性」が、国家が合法的に個別的自衛権を行使するための条件とされる。

1986年、国際司法裁判所ニカラグア事件判決において、集団的自衛権行使のためには上記のような個別的自衛権行使のための要件に加えて、武力攻撃を受けた国がその旨を表明することと、攻撃を受けた国が第三国に対して援助要請をすることが、国際慣習法上要件とされるとした。第三国の実体的利益に対する侵害が存在するか否かという点を要件とするかについては現在も意見の相違がある。」としているが明確に言い切れていない。

たとえ、「こうだ」と国際的な司法で判断してもアメリカはニカラグアからの損害賠償に具体的に応じていないのであるから「集団的自衛権」がひとたび容認されれば実質的「使い勝手は」無限に広げることが可能であると言わざるを得ない。

つまり「限定的に」とか「ぎりぎりの」とか言うのは政治家の通常の「方便」に過ぎす、素直な憲法「解読」であれば
そもそも「自衛隊」の存在ですら憲法との整合性が困難であるのに「集団的自衛権行使容認」ということにはもうこれ以上の「誤読」は出来ませんよという法律の専門家の本音であろうと考える。

なぜなら海外で日本の兵士が関係ない戦闘で死傷した場合、賠償を提訴されたならば、「憲法」を盾に訴えるであろうから、当然司法は「集団的自衛権」の行使容認が妥当であったかどうかという判断を迫られるだろうし、「政府」の解釈と食い違うことも「想定」されるのである。

もちろんうがった見方をすれば「三権分立」はただの建前であるから、時の権力の意向でどうにでもなるといえばそれまでだが、

それでも、

建前だろうが乙女の祈りだろうが「現憲法」が曲がりなりにもあったために、70年間日本は戦争をしていないし海外派兵で血を流すことも流させることもなかったという「事実」が厳然としてあるのだ。

それゆえに曲がりなりにも基本的人権が守られ、言論の自由があったと「信じたい」。ただしメディアの自主規制はメディア自身の既得権死守と欲望の問題であって「憲法」の問題ではない。

ただ言えることは司法行政立法そして報道機関や医療機関すべて自分の職業への誇りが消滅し、ただ「カネ」のために「しか」働いていないことだけはハッキリしている。

それゆえについに内閣法制局長官ですら憲法の番人から番犬になり、そのあげくただ吠えたがる駄犬に成り下がったのだ。誇りより餌(カネ)をくれというのは某野党党首でも某研究機関でも同じであるらしい。嘆かわしいことだ。

こんな日本に誰がした。