本澤二郎の「日本の風景」(1587)

<冤罪乱造の日本の腐敗司法>
 日本の警察・検察捜査のいい加減ぶりが、愚者の目にも見える。「ボクサーくずれ」と差別・偏見で、逮捕して以来、48年もの間、死刑囚として獄に入れてきた検察は、それでも再審決定に抵抗している。恐ろしい日本の検察にあきれるばかりだ。これは安倍内閣の意志・国家主義の恐怖だということに、国民は気付くべきだ。昨夜、夜の7時半に報道されたNHKが、珍しくまともだった。そのポイントを整理すると、以下のようになろうか。冤罪乱造の腐敗司法の実態そのものである。


<検察の都合のよい証拠のみ開示>
 日本の法廷は、真実と正義を貫く場所ではない。狂った法廷である。それというのも、驚くべきことだが、検察はかき集めた証拠全てを法廷に開示しているわけではない。被告に有利な証拠は隠ぺい、嘘で固めている。都合のよいものばかりだから、真実究明も正義も貫くことなど出来ない。
 明治の制度が生きたままなのだ。冤罪乱造は制度的に保障されているのである。国家犯罪はいとも容易に行われる。恐ろしい司法が、放置されていることに驚愕するばかりなのだ。
<一審で誤ると上級審も>
 せっかくの三審制度も意味をなしていない。一審での判断の間違いをするのが二審、三審の使命だが、上級審はハナから一審判断を正しいものとして受け入れてしまう。
 従って、誤審は最高裁まで継続するため、真実も正義も実現しない。悪辣な司法なのである。人権が保障されることはない。一審で有罪になると、もはや救済されることはない。よほどの善良な上級審判事にぶつからないと、冤罪事件は次々と起きる。
 袴田事件に限らない。無実の者がどれほど犯人にされ、命を奪われてしまったのか。想像すると、気が滅入るだろう。それでも、判事や検事・警察は反省も謝罪もしない。
<検事を正しいと信じる判事ばかり>
 困ったことに、いうところのヒラメ判事が多いという現状において、彼らは「検察の捜査は正しい」と思いこんでいる。元判事の指摘なのだが、正義と真実を追及する裁判官はいないに等しい。
 霞が関の官僚レベルで無責任なのである。強い者の味方をするヒラメ判事が少なくない。これも冤罪事件乱造の原因なのだ。
<拷問自白は今も>
 決定的な証拠のない事件の場合、警察は拷問によって自白させる。これの人権侵害は、言葉では表現できない。不勉強な筆者は菅家事件を知るまで、拷問の実態を知らなかった。
 密室での捜査は何でもありだった。可視化を拒絶する警察・検察の正体をあぶり出している。「疑わしきは罰せず」という刑法原則は、現場では通用していない。独裁国の手口が、この日本で行われている。
 こうした拷問捜査で自白させた警察・検察の当事者が、反省も謝罪もしない。人間性がひとかけらもない。悪魔人間と言わざるを得ない。
 悪魔の取り調べを受ける日本でいいのだろうか。拷問に耐えられる人間など、この世にいないのだから。
<再審決定は判事次第>
 過ちは直ちに謝罪することで、深刻な事態を回避できる。それが再審の決定なのだが、ここでもヒラメ判事が幅を利かすことになる。
 袴田事件での勇気ある判事は、証拠のねつ造だと決めつけた。弁護団の要求に応えて証拠の全開示を認めた。死刑囚に有利な証拠が沢山出てきた。こうした例は少ない。検事の捜査に対して、毅然と立ち向かうことで、真実が明らかになった。それが袴田事件である。
 しかし、それでも屈服しない検察は、裁判所の再審決定に挑戦している。悪魔人間そのものである。それは飯塚事件にもいえる。既に死刑執行を行っているわけだから、こちらは限りなく国家・麻生内閣殺人罪の可能性が高い。
 これを放置することは許されない。国家主義の内閣を倒さないと、同じことが繰り返されるだろう。
<米国は全証拠開示とDNA鑑定>
 さすがはアメリカである。証拠の全面開示をしている。そうして冤罪回避に努めている。DNA鑑定も徹底している。これによって73年以降、144人が無罪を勝ち取っている。
 それでも弁護士らは「検察の不正はなくなっていない」と警戒を怠っていない。検察の正義は、言葉の上でしか通用していない。
 法学部で学んだ筆者は、弁護士も検察官も判事も皆正義の人たちと敬意をもってきたのだが、全くの間違いだった。いい人物はわずかなのだ。
 制度が悪人の法曹人を生産している。アメリカを学べ、といいたい。
<無罪叫ぶ者にはCIU>
 アメリカでは、獄中において、それでも無罪を叫ぶ囚人の事件を、弁護士・検事・捜査官の三者で構成するCIUという組織で、改めて裁判に誤りがなかったのかどうか、を徹底して調査する。
 これはすばらしい制度である。このCIUで無実が判明すると、検事が無罪請求を起こすのである。これは立派だ。
 これを最高裁法務省は抵抗して、実現を阻止していると、元判事が怒っていた。日本の最高裁法務省の反人権体質に問題がある。冤罪の根源ではないのだろうか。
<正義と真実追及のアメリカ>
 アメリカは法廷を、正義を貫く場所、真実を明らかにする場所という、当たり前の常識が通用している。
 日本も、と言いたいところだが、日本はまるで違う。最近になって認識した筆者である。弁護士にとって、これは当たり前なのだが、ほとんどの日本人は、法廷で真実が明らかにされ、正義が貫徹するものと考えている。これは勘違いなのである。
<日本は誰でも犯人にできる司法制度下>
 要するに、日本では誰でも犯人にできる制度、司法制度下にあるということなのだ。とてもではないが、まともな民主主義の国ではない。
 東京に赴任してきた弁護士出身のキャロライン・ケネディ大使の、これは驚きではないだろうか。
 ここで亀井静香や志賀節らの死刑廃止論が評価できる。日本の捜査は限りなく冤罪事件と表裏の関係にあるからだ。そうして国家に殺された日本人は?ものすごい数なのであろう。
 権力に抵抗したりすれば、たちどころに犯罪者にさせられかねない。権力の地位を失えば、それもしかりなのである。
 日本の民主主義は、まだ桜花のように春を迎える状況にはない。
2014年4月4日6時55分記