本澤二郎の「日本の風景」(1274)

<日本の致命的な課題>
 日本に本当の民主主義がない。敗戦後に芽が出かかったが、ワルに刈り取られてしまった。そんな事情も知らないで、言論の自由の旗を掲げて生きてきた筆者である。さしずめセルバンテスドンキホーテだ。小学3年の学芸会で演じたものだから、今でも脇役・サンチョパンサの名前も記憶している。人民の人民による人民のための政治は、行われてはいない日本である。世界にこうした国・地域は多くあるが、日本もその一つだ。ぶっちゃけて言うと、先進国のほとんどが、民主主義を巨大資本・財閥・富豪の手によって潰されてしまっている。



<民主主義を奪われた市民>
 近代国家は、主権が一人一人の人民にあることを前提にしている。人民の意思、すなわち民意が、選挙で選ばれた国民の代表によって立法行為となって反映される。法律は民意と等しい関係にある。これが民主主義の政治である。公正な社会が実現されるのだが、日本はそこに大きな落差・格差が生じている。
 民意は反映されていない。人民のための政治は行われていない。
 権力の源泉はPEOPLE・人民である。断じて天皇などではない。民意が反映されない社会は、まともな民主主義社会ではない。悲しいことだが、今の日本に民主主義は存在していない。矛盾だらけの社会だ。その原因は人民にある。このことも確かなことである。人民に問題がある。油断していて、誰かに・ワルに奪われてしまった。潰されてしまったのである。
<財閥に買収された民主主義>
 人民の宝を奪った、潰した犯人は誰か。財閥である。強欲資本・富豪・多国籍企業と呼んでもいいだろう。彼らは、用心棒を使って日本を支配している。そんなに目をこらさなくても見えるだろう。
 この国のエリートの多くは、皆彼らの用心棒なのである。国会議員・高級役人・司法官僚らもそうだ。彼らは従って、国家財政破綻という危機的場面でも、その負担を人民に、平然と委ねる。野田内閣も、今の安倍内閣もそうである。
 エリート層は恵まれた富裕層である。彼らの負担は比例して著しく低い。不公正社会である。この国の前途はますます悪化している。
 仏作って魂入れず、という譬えがある。民主主義という容器はそろっているが、中身は違うものが詰め込まれている。
 財閥が3権を掌握している日本と決めつけてもおかしくないだろう。元来、民意を政治に反映させる役割は、野党や言論であるが、この二つが正常に機能していない。
 中国から飛来してくる粉塵に大騒ぎする政府・マスコミは、肝心要の放射能汚染について、必死で蓋をかけて深刻な情報を隠ぺいしている。
<CIA財閥同盟>
 3・11事件の教訓は、9・11のテロではない。54基の原発だ。安心・低コストという、電力会社や政府の説明が根底から突き崩されたことだ。原発廃炉にして、全ての電力を自然エネルギーに切り替えることである。
 欧米先進国は、ドイツを中心に反原発の政策が推進されている。
 だが、広島と長崎の世界唯一の被爆国という重い過去を有する日本は、それでいてその重く厳しい教訓を学ばなかったことから、東電福島事件が発生した。
 「もういい加減にせよ」と腸が煮えくりかえる思いの日本人が列島を覆っている。福島だけのことではない。それでも財閥は原発維持推進の方針を変えない。住友財閥経団連会長・中曽根康弘渡辺恒雄ら、いうところの原子力ムラの言い分に議会も司法もマスコミも屈してしまっている。
 民意と異なる安倍内閣が始動している。これはどうみてもおかしい。狂った日本である。権力が一部特権層に握られている証拠である。深刻すぎる日本問題なのだ。
 背後をワシントンの原発派が固めている。CIA日本支部が、悪しき財閥と連携している。日米同盟の真の姿はCIA財閥同盟なのである。3権がこれの配下に入っている。
<無知の無知>
 深刻な問題は、どこに潜んでいるのか。それは日本人がその元凶なのだ。動物で言うと、子羊そのものである。周りの数匹の番犬に右往左往する羊の群れのようなのだ。
 自立できない日本人、自立しようとしない日本人、それが偽らざる日本人なのである。理性のない、教養のない日本人が多すぎる。無知の無知、それが日本人ということになろうか。

 実を言うと、本当のところ、偉そうな口を聞ける立場にない。宇都宮徳馬の「50,60鼻たれ小僧」を、ようやく実感できるようになったばかりである。
20代後半から権力の中枢を取材してきたジャーナリストでさえも、相当な時間がかかって、ようやく問題の本質をつかまえることが出来たのだから。
 情報の提供者である言論界の多くが、その真相を掴んでいないという有り様なのである。事件捜査に熱中する社会部記者のほとんどは、その人物に黒いモノを察知すると、全てを黒と判断して叩きまくる、ただそれだけのジャーナリストになり下がっている。検察情報を鵜呑みにする。
 受け手は無知の無知である。
 「言論が健全でなければ、民主主義は正常に機能しない」という宇都宮の叫びはその通りなのだ。
無知の知へ>
 言論人は、無知の知という自覚が必要不可欠である。全知全能の神・仏など存在しない。だから「存在する」というトリックを用いる輩が生まれる。それを信じ込んで安寧を求める人間も少なくない。子羊として仕方がないのかもしれない。
 大事なことは、無知であるとの自覚が、知りたいという欲望へとステップする人間になることだ。そこに進歩がある。その手助けをするのが、国民に奉仕する言論人・ジャーナリストであろう。
ジャーナリズムは、民主主義の担い手といってもいいくらいだ。
 そのためには権力に屈してはならない。いわんや権力の走狗など論外である。金に転んではならない崇高な職業である。多くの市民は、これらに抵抗できない。「無知の無知」を受け入れている多数人間は、抵抗どころの話ではない。何もわからないのだから。しかも不幸にして、真実を報道する新聞テレビに登場する人物の全てが、こうした手合いである。「無知の無知」から「無知の知」へと変身・覚醒させる役目を果たしていない。
<市民革命は未だ成らず>
 白状すると、近年になって財閥やCIAなどの概要を掴めるようになってきた、と自負している。小沢・鳩山問題が、知られざる闇の世界を照らし出してくれたからだ。選挙の不正に絡んで、全く知らなかった「ムサシ」のこと、さらには「日揮社員殺害事件」なども。
 比例して、誇れる住み家と信じてきたジャーナリズムの腐敗が、予想外に進行していることに驚愕させられている。言論の自由の根幹が怪しいのだ。日本人の「無知の無知」から「無知の知」へと抜け出す道は、なかなか厳しいものがある。日本の市民革命は未だ成らず、である。
 社会は混乱・不安定化してゆく。
 他方で、ネット情報が氾濫している。この道の専門家は、そこからいい情報と悪い情報を選別する。そのことを知った。いい情報を集めることが出来れば、公正な評論を生み出すことが出来る。ネット達人に出会えれば、新聞テレビなど不要であることに気付いた。
 この世は、真っ暗闇ばかりとはいえない。
2013年2月9日8時35分記